前作『悲しみに、こんにちは』では、少女の精神的成長と「家族になる、とは?」を重ねて描いてみせたカルラ・シモン監督。今作もまた、自然に恵まれた田舎でひと夏を過ごす家族の風景という、よく似た自伝的舞台をとっている。
しかし、伝わる印象はよりリアリスティックで、《桃》にしては思いのほかビターでもある。『悲しみに~』ほどのわかり易いエモーションの波は少なくて、拍子抜けしたのも正直なところではあるのだけれど、変わりゆく時の中で「それでも家族は家族だ(or であるしかない)」とでもいうような、オトナでサステナブルな着地を見せる。
主役となるのは、祖父から孫に至る3世代、かつ兄妹2世帯を横断して桃農園を営む家族・ソレ家だ。物語は、そんな彼らが地主から立ち退きを宣告されるところから始まる。かつて祖父の代では口約束で土地が取り交わされていたために正式な契約書がなく、法的には抵抗する余地がないのだ。
家族のメンバーには頑固一徹な父親や、静かに家族を支える母、一人前として認めてほしい兄、思春期に突入せんとする妹、遊び盛りのちびっこたち…等々の面々がいて、映画は誰に主観を偏らせることなく群像劇的に表現している。
それぞれの思惑や悩みは家族といえども当然バラバラで、この立ち退き騒動をきっかけにそのギャップが徐々に可視化され、大小のトラブルも頻発。今こそ団結すべきときに、彼らは家族をリビルドできるのか?という大きなテーゼの下で、個々が直面する変化と適応といった小さな物語が並行して重ねられる構成は巧みだ。
地主側もまた、単に非情な鬼か悪魔というわけではない。地主には地主の事情があるし、ソレ家には桃農園の代わりに設置しようとしているソーラーパネルの管理の仕事を紹介もしている。
ソレ家の父親はその提案を頑なに撥ねつけるのだけれど、家族にも食い扶持が必要なのは現実で事実。それに、桃もソーラーパネルも、いずれも「太陽から得る恵み」という点では本質的に変わりないといえるかもしれない。
このフラットな感覚は、この映画の長所といえる点だと思う。確かに、家族の伝統(つまりは彼らのアイデンティティ)が失われる危機感や、重機によって壊される田園風景は痛みを伴う。しかし、そもそもヒトが農業のために作りだしてきたこの環境はどこまで《自然》といえるだろうか?
劇中では、ソレ家の人々が害獣駆除の目的でウサギを殺したり、大型資本(大手スーパー)への抗議デモのために、せっかく収穫した桃を大量に潰して投げるために使ったり…といった光景からも目を逸らしていない。それに、彼らもまた収獲の人手として臨時のバイトを使う、つまり「雇う側」でもある。(※1)
つまり、ともすれば「自然と共に生きている」風の農家の面々であっても、既にして近代的・資本主義的な《仕組み》の一部となっていることは逃れようがないのである。
映画のオープニングとエンディングでは、共に田園風景を映しながら、そこに流れる音によって避けがたい変化と対比を表現している。失われるものを惜しむ《感情》と、本質的には何も変わらないという《現実》を区別して、いずれも蔑ろにしないし美化し過ぎたりもしない…というバランス感覚はとても信頼できると思える。(そして、それは家族同士の関係にも直結している。)
劇中では何度か家族が一緒に歌う場面があって、祖父母から孫まで貫いて受け継がれているスピリットが伝わる。その歌は、こんな風に歌うものだ。
「太陽が労働者なら、朝日は寝坊してしまうだろう」
「亡き友、大地、故郷のために歌おう」
ものごとや人には時と場によって適材適所があり、最も大切にすべき本質を見極めなくてはならない…という精神を説いているように、わたしには思える。もちろん、今作の物語の背景には経済格差やエネルギー問題といった種々のイシューが横たわっていて、一筋縄ではいかない。しかし、それでも人は人として生きていくしかない。その削ぎ落されたシンプルな真実を前に、《家族》は何ができるだろうか?身近な周囲に、自ずと再び目を向けさせてくれるような映画だった。
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ちょっとアリーチェ・ロルヴァケル監督の『夏をゆく人々』(大好き)にも似ている。あちらはイタリア。今作は、マジカルな成分を抜いてより現実的にした感じ。
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女児たちの裸身(上半身)にボカシがかかる場面があって、とても違和感を覚えた。家族の自然な日々の営みとカルチャーを描いた光景であるのは明白であるのに、ボカシによってまるで「いやらしい」ものでもあるかのように逆に意識が形成されてしまうように思えた。本末転倒なのでは?
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※1:ソレ家側の都合で、当日になって急に人員を減らしたり、みたいな場面もあった。