このレビューはネタバレを含みます
この映画を鑑賞するときに排除しなければならないのは史実への拘りだ。その点、この映画は、各登場人物が誰なのかということを字幕で示さなかったり、主人公の二人がお互いの名を呼ぶ場面が一つもなかったり、鑑賞者が史実を思い出さないように、非常に気を遣っているように思えた。
時代として、信長が天下布武に向うのは必然で、恐らく、信長がやらなくても誰かがそれを行うか、誰にもそれが出来なければ、一旦、西洋に侵略されるか、そんなところだったかと思う。なので、信長が第六天魔王と名乗り人の心を消し、ダークサイドに向ったのも必然だと言える。この映画はその変化を克明に描いている。そして、皮肉にも、信長が再び人の心を取り戻しかけたことを、誰もが知る結末の原因として描いている。戦いが終ったばかりの長篠設楽が原を信長が見回るとき、戦場に横たわる兵士の亡骸に止まっていた蝶がひらひらと舞い、信長の肩に止まった。この蝶は死のリレーのバトンのようにも見え、この映画を見終わった後に振り返ると、人の心を伝える妖精のようにも思える。濃姫と呼ばれた信長の妻の名は帰蝶である。
信長と帰蝶は、利用し合う者同士の間柄から、京での出来事を切っ掛けにお互いを大切に思う気持ちを育んでいく。帰蝶は、信長に人の心を捨てないで欲しかった。しかし、一方で、そうまでして自分の使命をやり遂げようとする信長の迷いのもとになりたくなかったし、そんな信長の心中には自分がいないように感じていた。同時に、自分が信長が天下取りに向うようにけしかけたことを強く後悔した。しかし、逆に、信長は帰蝶が重い病に罹ったことで自分が帰蝶を求めていることに改めて気づき、残りの人生を帰蝶と共に生きることに決め、最後の戦いの為に本能寺に向う。
本能寺の変の夜、瀕死の帰蝶は、信長が戻るまでに弾けるようになっておけと言って残した西洋琵琶に這い寄って、それを抱えて壁にもたれる。そして、弾いたことがないはずの琵琶で美しいメロディーを奏でる。光秀に追い詰められた信長は、帰蝶が信長から贈られ大切にしていた蛙の置物を懐から出したことを切っ掛けに、隠されていた抜け道を見つけ、本能寺を脱出。安土城で待つ帰蝶を連れて南蛮船に乗り込み、帰蝶が望んだ異国への旅に出る。
ラスト直前のこのシーンを観たとき、この映画はやり過ぎたな、と思った。史実とは違うフィクションだとしてもほどがある。折角これまでは入り込める物語だと思っていたのに、ここまで来ると、一気に醒める。そう思った。でも、これはこの映画に仕掛けられた罠だった。これのシーンは、本能寺の変の夜に、信長が観た白日夢、帰蝶が観た走馬灯だった。二人は同じ夢を見て彼岸に旅立った。彼らは二度と会えないとも言えるし、同じ夢の中で永遠に一緒だとも言える。強烈なロマンティシズムを感じた。
この映画が史実をベースにしたドラマであり、しかし、あくまでドラマであることは、多くの鑑賞者が承知していることだ。また、この史実の結末はこの国で一番有名な出来事といってもいい。それを一旦、安易に裏切ったように見せ、それをもう一度、どんでん返しで史実通りに引き戻す。普通のフィクションなら引っかからないかも知れない夢落ちだが史実がベースであることを活かして鑑賞者を大きな振れ幅で揺さぶった。私はこの罠にまんまと引っかかってしまった。