このレビューはネタバレを含みます
立派な息子が、俺の跡を継いでくれる🃏
これぞジョーカーの真髄。本作の後だと、むしろ前作の方が異端だったとさえ思える。
カウンターではあるが、前作を否定する作品だったとは思わない。これはジョーカーの然るべき"進化"であり、最高に笑えないジョークでもある🤡
個人的に、ジョーカーは出自不明の存在であって欲しい。実体を持たない完全悪であって欲しい。
だから、その起源を描いてしまう前作には少し抵抗もあった。"悪のカリスマ"に、同情できる悲しい過去なんて必要ない。
(ドラマ『GOTHAM/ゴッサム』のジェロームの扱いは難しいところ…🤔)
本作の着地点は、私の好きなジョーカー像に全うであった。ジョーカーは"人"という単位よりも、やはり"概念"として捉えた方が面白い。"記号"や"偶像"、"現象"と言っても良い。
アーサーの中で産声を上げたジョーカーは、彼の手に負えないほど大きく育ってしまった。アーサーは最初の宿主になっただけ。もはや「ジョーカー=アーサー」である必要はない。
所詮、アーサーは1人の女性に恋する男の子。ジョーカーの器ではなかったわけで。自分を救ってくれた大事な"息子"に殺されるアーサー。当然の報いだけど、こんなジョークがありますか…🥺
とはいえ、愛に帰結できた点では、アーサーは選択できる唯一のハッピーエンドを迎えたとも言える。最悪の息子を世界に解き放っておきながら、自分は愛と共にこの世を去る。これまた笑えないジョークである。
自己反省的な映画だったか?
私はあまりそう感じなかった。反省が目的なら、作中できっちりジョーカーを始末しなければならないはず。が、この映画の行く着く先は真逆だった🃏
アーサーを主役に据えて観ると、コレジャナイ感が半端ない作品になる。「早くジョーカー出せよ!」って、皮肉にも劇中の聴衆たちの声とリンクする。
この状態こそが"フォリ・ア・ドゥ"なのかもしれない。ジョーカーを求める観客もまた、ジョーカーであると。公開後の批判をもって、初めてこの映画は完成する。ジョーカーの"フォリ・ア・ドゥ"が果たされる。そこまで計算しての構成か。いやはや恐ろしい…😱
この映画の主役は紛れもなく「ジョーカー」であるはず。視覚的に見えていないだけのジョーカーが、ずっと背後で糸を引いていたのだとしたら…
見えないけど、確かに"いる"。見えないからこそ、強烈に存在を感じる。ジョーカーを望む声によって映画が炎上していく様を眺め、彼はHA HA HAと笑っているだろう。
親元を離れたジョーカーが、宿主を移ろいながらゴッサムに蔓延する。この世界にも、1日も早く"ダークナイト"が誕生してくれることを切に願う🦇