小津の最初のカラー映画。テーマはいつものやつ。
どうしてか、正直あんま面白くなかった。金太郎飴のごとき戦後小津映画に面白いも何もあるのだろうか。しかし、実際のところ面白いものと、そうでないものがある(変な作品も混ざっている)。本作は脚本があまりに図式的である。他人の結婚に関しては「恋愛結婚大いに結構」な主人公が、自分の準備していた縁談を無視して娘が恋愛結婚をしようものなら反対しだす。映画の終盤でも妻に指摘されるこの「矛盾」が、ほかの若い女性との会話で浮き彫りになるのだが、それがちょっと分かりやすすぎる。
そういうわけで本筋よりも、主人公と男性平社員との間抜けなやりとりの方が、喜劇作家小津の良さが出ていて楽しめたかな。ひとりで飲んでいたら主人公(重役)がまた入店してきて、思わず店員と一緒に「いらっしゃいませ」と言うのとか、ああいうコテコテのギャグが笑える。
■1階と2階
戦後の小津の映画で特に目立つことの1つに、住居のフロアによる何らかのギャップの表現がある。特に世代差である。これは先日レビューした『晩春』で特にハッキリしているが、例えば『麦秋』でも1-2階の関係(居住者)を逆転させた上で同様の図式がとられている。
ところで、異色作『風の中の牝鶏』では妻が夫によって階段を転落させられる。後期小津の中では珍しく暴力的なシーンであるが、おそらく最低限の動作でそれを表現するための階段である。殴ったり蹴ったりしなくても、押すだけで暴力が成立するからだ。
■不可視(侵)の2階
さて本作では映画のクライマックスまで2階の存在は隠されている。しかし、登場する前から、2階はその不在によって独特の効果を上げている。
画面奥の廊下、その右側のフレーム外へと、決まって2人の娘たちは「消える」。そこに階段があるはずだ。手前の空間つまり1階の居間は両親の世界、とりわけ亭主関白な主人公の根城である。娘たちは、他の目的地に行くついでに、そこに立ち寄っているだけに見える。彼女らは左側からやってきて、そこで親と会話し、右側へと流れるように去っていく。
このとき、本作における親と娘の関係を示す上では、むしろ2階が描かれないほうが効果的なのだ。2階が描かれれば、そこに空間的な連続性の印象を与えることになるだろう。そして何より、本作の親にとって娘たちは理解不能な存在であり(「黙ってニヤニヤ笑っている」かと思えばいつの間にか結婚相手を決めている)、彼女たちの私的空間が描かれないがゆえにその内面生活もまた不可視となる。
■氾濫する赤
小津がカラーを撮ることに決めたのは赤の発色に納得がいったかららしい。赤というか朱色だが、何にせよ本作において赤色がやたら目立つことは否定しようがない。そのことは、もっぱらストーリーだけを追いかけている私のような観客であっても気づくほどである。
特にヤカンの存在感は異常である。小津がショットによって微妙に静物の配置をずらすがゆえにワンシーンの中で矛盾が生じることは話としては有名だが、ふつうは気づかれない。しかし本作ばかりは、鈍い人でも気づく。ヤカンの鮮烈な赤が必ず観客の目を惹くよう、ショットによって位置を動かされていることに。
逆にいうと物語への没入感を妨げるほどの過剰な画作りはいかがなものか。過剰な画作りはいつものことだが、それが今まで受け入れられてきたのは白黒だったためかもしれない。小津の初めてのカラー作品では、その徹底的形式主義に配色をも従わせようとして、劇映画としてはむしろ失敗しているのかもしれない。