このレビューはネタバレを含みます
オットーは父と同じ名前だ。
彼は出会って間もないソーニャに、自分は機械が好きだ、という。なぜかというと、父が機械技師で父とずっと機械の話をしていたからだという。母を早く無くしたオットーは父の影響を強く受けて育ったはずだし、同じ名前を付けるほど父は彼に愛情を注いだはずだ。そして、オットーはその愛情を真っ直ぐ受け止め父を愛していた。ソーニャに自己紹介するときに自分の名前が父と同じであることを真っ先に伝えることがそれを示している。
その機械の概念はオットーの価値観のもとになり、行動原理になっている。これは勝手な仮説だが、彼にとっての機械は人の生活をスムースにし、快適な方向に変えるもの。そのためには、綿密な設計と、磨かれた技術と、繰り返される試行によるデータが注ぎ込まれている。簡単にいうなら、機械は人を幸せにするため、その人々が全力で作り上げた機関だ。
彼はおそらく無意識に世の中を機械になぞらえているのだと思う。世の中は(それは規則やエチケットや倫理観や、あるいは、何事においてもそれを上手くこなすためのやり方などのことだが)機械のように作られていて、それを理解してそれに沿って考え振る舞えば、人は幸せに近づき、世界は暮らしやすくなる。そのような概念だ。彼は、持病のために軍に入隊できなかったとき、自分は世の中に組込まれない役に立たない存在と感じ絶望しただろう。そんな彼を救ったのはソーニャだ。彼はソーニャを愛し、ソーニャに求められることで自分の存在価値を見出した。また、そうする内に、大学で学び、仕事を得、自分の暮らす地域で根を生やすことで、彼は世の中という機械の中でしっかり機能する何かになっていった。
ソーニャに先立たれたオットーは生きる意味を見失い、仕事も辞め自殺しようとする。しかし、そんなときでも彼は日頃行っている「見回り」を行う。守られていないルールを見つけては口やかましく注意する。これだけであれば、彼は口うるさい年寄りだが、彼が行うのはそれだけではなく、分別されていないゴミを分別通りにゴミ箱に入れ直したり、駐輪場所以外に止められた自転車を駐輪所に動かしたり、縦列駐車が出来ず芝生を傷めている隣人と運転を代わりそれをしてあげたり、つまり、言うだけではなく、行うべきことを行うべき方法で行い、そのことで彼の暮らすコミュニティを暮らしやすくし、隣人を助けていたのだ。そのことで彼は隣人にとって役に立つ人になっていたし、彼が人を助ける心根を理解する隣人は、彼のことが好きだった。彼が何度か試みる自殺は、彼の救いを求める隣人により妨げられるのは象徴的な流れだ。彼が線路に降りて電車に轢かれようとしたときに、先に線路に落ちた人を救助する。そして、そのまま線路に立ち死のうとする。しかし、最後には、彼は差し出された手を掴んでそこから脱出する。彼が死を選ばなかったのは、彼はまだ何ものかに求められていて、この世にやるべき事があると気づいたからではないだろうか。
その時から、オットーは自殺を考えることはやめ、隣人を助け、暮らしやすいコミュニティを守ることに更に力を尽くす。それはオットーにも、愛すべき隣人に囲まれて過ごす幸せな人生の終盤をもたらした。おそらく、彼の隣人はオットーとソーニャの名が刻まれた墓を守り、時々訪れては、温かい気持になるのだろう。