晴れない空の降らない雨

きみの色の晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

きみの色(2024年製作の映画)
4.6
 これまでより肩の力を抜いた作品。もちろん構図の緻密さや描写の繊細さなどは、他の山田尚子監督作品に劣るものではない。だが、張り詰めた細糸のような『リズと青い鳥』や、物語りの意義をめぐる深刻な自問自答の過程が投影されたであろう『平家物語』に比べると、本作はほとんど職人芸のようで、まるで気負いを感じさせない小品である。

■波:色と音と形
 冒頭で、「他人が色で見える」というトツ子の自己紹介とともに、色覚のメカニズムについて説明がなされる。色とは光の波長であると。同様に、音もまた波長であるし、実際に音楽編集ソフトの画面にそのことが視覚化される。そして、アニメーションである本作においては、ものの形もまた輪郭線がなす運動=波によって描かれる。特に山田尚子監督特有の「足のショット」や、あるいは登校やスポーツなど複数人が同時に動くシーン、またはバレエの運動において、人はそのことを実感できるだろう。
 また、本物の波が描かれる場面もある。トツ子ときみが、ルイのいる離島と本島をフェリーで行き来するときに、海の波がアニメ―トされている。このフェリーによる移動は、あたかも2人が光や音となって、孤独な少年のもとに向かっていくことを表しているように思える。

■世界はいつも揺れ動いている 
 光、音、形がすべて波のように揺れ動いている。つまり世界は常に揺れ動いている、ということ。このように、本作のモチーフは「波」という言葉に集約することで、総合的に捉えることができる。そしてこのことはまた、山田監督がアニメーションあるいはむしろ映像というものを、総合的に捉えていることを感じさせる。
 つまり監督は、音響と色彩の地位を、線の変化としてのアニメーションと同等に引き上げている。本作において波としてモチーフ化されるところの光・音・形とは、そもそもが(アニメーション)映像の構成要素に他ならないのだが、そのいずれをも尊重するのが彼女の作家としての姿勢であり、本作はそれが純化して現れている。
 
■世界は不安定である
 上記のような世界観から、本作(あるいは監督の諸作品)のいくつかの特徴を説明できるだろう(以下はパッと思いついたものを書いただけで、MECEは全く満たしていない)。
①ファインダー越しに覗いたときの光の効果や、レンズ機能を模した諸々の撮影処理、また人物の主観が投影された空想的表現。このうち主観ショットでない表現については、誰かひとりのものとも言いきれない情感が投影されたものと言える。登場人物の感情のようでも、あたかも作り手たちの共感や思いやりのようでもある。このような折衷的な感情のこめかたは、いわゆる「自由間接話法」と言えよう。この特徴は、世界がそうした主体たちに見られた世界である限り、世界の揺れ動きと密接な関係をもっている。実際、本作では「色」が完全に客観的なものでなく、トツ子の特異性によって主観的なものとして扱われている。つまり世界の揺れ動きとは、それを見る者の揺れ動きである。見る者が(カメラさえ)神でないならば、世界は不動ではいられない。
 ②何らかの「記録映像」あるいは「回想」。本作では冒頭のバレエのシーンはおそらくトツ子の回想だが、あたかもビデオテープのようなノイズ交じりの映像である。次に登場するのはエンドロール後だ。スマホで撮影された3人のMVの冒頭部分。これは第1の特徴とともに、「映像=過去」という性質を強調するものだ。映像には「永遠化された現在」と「手の届かない過去」の両面があり、このことは山田監督の作品にとって非常に強く意識されていると思われる。
 ③「ノイズ」の偏愛。これは映像と音の両方に当てはまるが、後者についてはすでに『けいおん!』でのカセットテープ、『たまこまーけっと』でのレコードと、ノイズ交じりの音楽を発する音源を登場させていた。そして『聲の形』以来つづく牛尾憲輔とのタッグにより、山田作品はノイズを劇半そのものとして強く響かせるようになる。
 ではなぜノイズを愛するのか。それは「揺れ」や「脆さ」を表現するためだろう。ノイズが過去性を表現するとき、それは時間の脆さを意味している。時間が絶えず分解されて、私たちのもとから過ぎ去っていく。現在時制で使われているときも同様だ。ノイズは世界の揺れを表現する。世界がいつも揺れ動いているということは、すなわち不安定ということでもある。
 
■高校3年生:時間が足りない
 世界がいつも動いているのは時間が流れるからであり、時間が流れることは「今このとき」がそれだけ脆弱なものであることを表している。実際、今とは存在しないと言ってもよいほど弱々しいものだ。この脆弱さが、山田尚子の映像世界を決定づけている。
 山田がほとんど必ず主人公に選ぶのは、高校3年生という年代である。この不安定さは、刻一刻と流れる時間というものに起因している。「今このとき」がたちまち後ろに過ぎ去っていき、二度と取り戻せないことの切実さが、最も感じられるのが高校3年生である。映画は、きみやルイの影のある家族関係や葛藤を示唆することで、この側面を補強している。

■『エコール』の参照
 監督は『エコール』の影響を過去に語っているが、本作はミッションスクールを舞台に取り上げていることもあってか、同作からの借用が目立つ(噴水・バレエ)。しかし『エコール』の雰囲気とはまったく異なる監督の作品において、少女の身体という表層に対する単なるフェティシズムでなければ、同作がかくも参照される理由とは何だろうか。それはやはり不安(定)という情動・状態に関わるものだろう。
 『エコール』は少女たちの危うさを性と死を通じて観る者に見せびらかすが、監督はその露悪を回避した上で、同作のショットだけを掬い上げ、世界の揺れ動きとして自作に転用してみせている。
 
■演奏する:私(たち)は今である
 そして再び音楽という要素を取り上げると、これが監督にとって非常に大事なモチーフである理由もここにある。演奏とは、この上なく「今ここにいる」ことのできる体験だからだ。演奏しているとき、人は時間と理想的に同期している。今は私の後ろに流れていくのではなく、私は今という時間を乗りこなしている。特に誰かと演奏しているときは、その今を共有することで、至福はさらに増す。それゆえ、演奏シーンがカタルシスの瞬間として選ばれている。
 本作には、演奏と同じ効果をもつ行為として「踊る」がある。トツ子に自身の色が見える瞬間が、まさに踊っている=時間と同期している最中であるのは的確であり、山田監督が自分のなしていることを完璧に理解していることの証左である。

■走る:今を追いかける
 ラストシーン、ルイを乗せたフェリーを追いかけ2人は走る。走るという行為は、とりわけ青春時代を扱った和製アニメにおいてほとんど常に特権化されてきた視覚的主題である(歳を取ると、急に走るなんてことは滅多にしなくなるからよく分かる話だ)。そしてその意味も概ね共通しているが、なぜ青春時代に取材した作品において走る行為が重要なのか、その理由を考え抜いているのが山田尚子である。誰か・何かに追いつくために人は走り、そのとき「今いるべき場所に私がいない」ことが問題になっている。だからこそ、今の希少性が切実性を帯びている青春時代にふさわしい主題になる。
 2人は走り出す直前、「ちゃんと見送らなくてよかったのか」「またすぐ会える」といった会話している。この「すぐ会える」という考えは、今の希少さ、その自覚の否認である。この否認を否定するようにして走り出すとき、「今は今しかない」という事実を彼女たちは認める。
 
 そしてきみはルイに「頑張って」と何度も叫ぶ。ルイは虹色の飾りを精一杯振って応える。人の思いが、光と音という2つの波として表出され、交換される。