【探す②】
※ ヴェネチア国際映画祭・非コンペティション部門出品
バザンが初代編集長を務めた作家主義を掲げる映画誌カイエ・デュ・シネマ、2023年の第1位の作品だ。
このアルゼンチンのインディペンデント作品の面白さを上手く伝えられるか分からないけれども、下高井戸シネマわずか一館で、年末のたった4日間の上映が、もっと長く、そして全国的にも広がれば良いのにと思う。
映画「トレンケ・ラウケン」は、PART1のチーチョとラファエルの現在進行形のストーリーに対して、PART2は、ラウラの独白が中心になる。
そして、PART1でちょっとだけ紹介したピーピング・トムとは何かから始まって、ラジオ局での仕事がきっかけだったことや、フリアナとの出会い、その中で扱われたPART2の中心の”何か”の事件、新たな登場人物、そして、ラウラが植物学者であったために選ばれたのだということ、ワイパーのメモ、グリーンのリュックなど、細部の伏線の回収もしながら物語の核心に迫る展開になっている。
(以下ネタバレ)
ただ、実はこの映画をより興味深いと思わせると考えたのは、PART1のカルメンと、ラウラの対比だ。
結局、”なぜ”は分からずじまいだ。
あれだけ細かい回収があって、トレンケ・ラウケンの謎の生物も含めてラウラの行方が分からなくなった本当の理由は分からずじまいなのだ。
ピーピング・トムは、見るべきではないものを見てしまって目が潰れてしまう。
僕たちは、人間関係で見る必要のないものまで見ようとするモチベーションにかられがちだったりしないか。そして、逆説的に、それによって見るべきものを見なかったり、見過ごしているのではないか。この作品は、こうした示唆も与えようとしているのではないかと感じたりする。
カルメンとはそんな存在の示唆でもあるはずだ。
単なるフレーバーと見なされるかもしれないカルメンは、この作品の大きな伏線でもあり、対比でもあるに違いない。
この「トレンケ・ラウケン」を通じて、物語は僕たちの社会を皮肉って見せている気がする。
PART1のレビューでも書いたが、この「トレンケ・ラウケン」は、アルゼンチンの代表的作家であるボルヘスやボラーニョ的であるとフライヤーや下高井戸シネマの紹介に記載されていたが、探すということや、得体の知れない何か、物語の構成はどこか村上春樹さんの小説のようでもある。
興味のある方は是非‼️