エドガルドは少年期と青年期で役者が入れ替わりますが、容貌に違和感はありません。きょうだいたちも似通った容貌の役者をそろえていて、チラッと映った赤ちゃん時代の顔も目元が似てて、ほっこりします。
家族のファミリー感をだそうとする監督の強いこだわりを感じて、好感度ましましの映画に仕上がっています。
エドガルドは確かに数奇な運命をたどった人ですが、宗教でなくても例えば家庭の不和・困窮による家族離散を考えると結構な数の不幸がおきており、数奇だが特に稀有な出来だとはいえない、どの時代、どの場所でも起きうる事件を扱った映画だと思いました。
本作は19世紀半ば、ヨーロッパで勃興した自由主義の波をまともに被ったイタリアを舞台にしています。
時代の大きな変わり目の中で、教皇の座についたのがピウス9世、彼は時代の流れとは逆に教義の厳格化、教皇庁の強化を目指し強権的な運営を摂ります。
その強権の矛先が向いたのがモルターラ家の息子エドガルド。
教皇は生まれたばかりのエドガルドがカトリックの洗礼を受けたことを理由に、彼を家族から引き離しローマの教会施設で教義教育を受けるよう指示を出しました。
エドガルドの親は家族の預かり知らぬ言いがかりに剛として拒みますが、強制的に連れ去られます。
映画はその後、教皇ピウス9世の行動やイタリア統一運動との軋轢を織り込みながら、エドガルドに目をかけるピウス9世との絡みを描いていきます。
そこでのエドガルドは熱心に勉強し教義は完璧にそらんじることができても、単に丸暗記しただけで、彼の心はいつもここに非ずの虚ろな目をしており、彼がどんなにかわいがられても教皇を私淑してる様子は伺えません。
運命に翻弄された人がもつ訴え先のない哀しみを抉り出す、この演出は見事です。
エンドロール時に流れる長い葬送行進曲は圧巻です。
最初ショパンかなと思わせる導入部、しかしすぐに人を悼む曲想というより心に乱調を来すような不協和音まじりの音色が入り、中盤以降は柩車が砕け散ったガラスの欠片を踏みしめ進むような音が延々と続く、葬送行進曲とはとても思えない作りの曲。
出だしの追想風なところで、終幕直前に亡くなった母親に手向けた曲と思いましたが、次第にこれは無理を強いられたエドガルド向けかと思い、中盤以降の重々しいドローン奏法に入ったとき、いやいやこれはモルターラ家全員に捧げた曲だと思うにいたりました。
こと左様にむごい事件(原題はRapit→拉致)、その終章にふさわしい曲だったと思います。