春とヒコーキ土岡哲朗

哀れなるものたちの春とヒコーキ土岡哲朗のネタバレレビュー・内容・結末

哀れなるものたち(2023年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

美しくていびつな世界に、自分がいる。

すごく変な映画を観に来てしまったと思ったら、感動していた。
序盤がずっとモノクロで、エマ・ストーンは食べ物が気に入らないと吐き出して、芸術的かつ「生理的」なクセのある映画だなと少し身構える。そこでウィレム・デフォーが口から大きな泡を出したときに「ああ、すごく変な映画だ。どうしよう」と思った。何も理解できないんじゃないかと。でも、序盤でなかなか衝撃の事実が分かり、主人公ベラの正体が分かると同時に、見届けなくてはいけなくなる。そして、ベラの旅路を見ていて気づいたら、一人の人間がこの世を生きること、人生に感動していた。登場人物たちはとんでもないことをする人が多いし、犬鶏もいるし、景色はブランドのポスターのように「出来上がった」ヴィジュアルで、面白いけどリアリティのない世界。でも、そこでベラが体験するのは生々しく「人生」で、理解できていた。こんなに監督の独自の感性を出して、しっかり伝わって来るものがあって、その世界を好きにさせることができていて、すごい。

理不尽をされた存在、ベラ。
独特で気持ち悪いこの映画は、ベラの正体が分かったところで本題に入る。ベラは、自ら命を絶った女性の体に、その胎児の脳を移植して誕生した人間だった。父替わりであるゴッドが、科学への探求心で倫理なく生み出した。それまでは奇怪に見えたベラの行動も、中身が子供だと知れば納得。想像すれば、体が20~30歳ほど年を取っているということは、いざ実年齢が20歳になった頃には若く動ける盛りを過ぎているし、残酷なことをされているなと思った。そして、婚約者ではなく弁護士のダンカンにそそのかされ、彼と旅に出る。このときにベラは、大切にしてくれるのはマックスだけど、自分を大切にしないダンカンの方が冒険が楽しめそうだからついていく、と言う。女性がいっときは悪い男の刺激に惹かれるというのを直感で自覚しながら、判断能力は低く目先の好き嫌いで動く。まさに大人と子供がいびつに混ざった思考。旅先で、性に対してまだ分別のないベラをダンカンが手籠めにするのが胸糞悪い。ここまではベラが好き嫌いに「反応」しているだけの状態。

知性が芽生え、自分が「世界」の中にいると気づく。
船に乗って老婆マーサと出会ってから、ベラは自分を成長させ始める。マーサは、下ネタも受け入れながら、ベラの無礼も幼稚さも心広く付き合う。ベラも自分を縛り付けないマーサに懐いたのか、どうやら彼女の影響で読書を始める。ダンカンは大人な遊び人の余裕も一切なくなり、ベラを支配できないことにいら立ち続けている。ベラが読んでいる本を奪って海に投げ捨てるところも最低だった。マーサはすぐに別の本をベラに与えるが、それもダンカンは海に投げ捨てる。しかし、次の室内のシーンになるとベラはまた本を持っている。またマーサがくれたのだろう。縛りはしないが、自分で考える能力を身に着けさせるために本をくれるマーサの存在がこの映画の一番の良心だと思う。船は途中、貧しい人たちが苦しんでいる場所に滞在する。赤ん坊が飢えて死んでしまう過酷な暮らしを見たベラは、世界の理不尽に動揺し、泣き崩れる。このベラの変化に驚いた。自分の好き嫌いに反応してきたベラが、みんな平和で楽しいのが良いという価値観までは進み、貧しい人のためにダンカンのお金を差し出す。そのお金が船員たちに持っていかれて貧しい人には渡っていないのも、世知辛いリアル。ダンカンのお金を勝手に使ってるし、それは自分の生活費でもあるから困るし、というところまでは考えが及んでいないけど、他人のために行動したり、世界の厳しさを嘆いてショックを受けたりと、だいぶ自分の外にも視野が広がった。

現実の中での自由。
ベラとダンカンは、一文無しでパリに到着する。ここで、雪の降る町でベラが以前よりも理性が身についたしゃべり方をしているのを見たとき、なんだかわかっていなかったこの映画が、「一代記」系の映画なんだと気づいた。ベラがいつの間にか変化している。徐々に成長していたので気づかなかったが、最初はもっと叫んでおしっこを漏らしている子だった。物理的にもベラの人生としても遠くへ来た。それが、旅の仲間としてはふさわしくないダンカンと一緒なのが、やっぱりいびつな映画だなと思った。ベラはお金のために娼館で働きだす。それに憤ったダンカンが髪を引きちぎってわめいているのを見て、ベラが「帰国しなさい」と言うのは笑った。どうでもよくなりすぎ。娼館に来る客の中には、そういう場とはいえあまりにも自分が欲を解消するためだけのプレイをする人間がいる。あるときベラは、客にルールを提示し、幼い頃の話やジョークを言ってコミュニケーションをとってからプレイを始めた。彼女なりに自分の尊厳を守るため、コミュニケーションのない不躾なプレイを避ける工夫。自分のために試行錯誤するのも成長だが、それ以上に気になったのは、ある程度は自由が制限された状況の中で「なるべく」自由であろうとするところ。理想が100%叶う現実なんてない。でも、全てを諦めるのではなく、今いる現実の中で、なるべく自分らしさが尊重される形を模索する。それをする姿に、いつの間にこんなに大人になったんだと感じた。

支配との和解、支配との決別。
ゴッドのもとに戻ったベラは、自分の出自を知る。知性を身に着けた彼女は、自分と母親がされたこと、そのゴッドの身勝手さを理解できる。病気でもう長くないゴッドは情に目覚めていて、娘のようでもあったベラに許してほしく、謝罪する。ベラはゴッドを、許すけども許さない。ベラは生きることの価値を知ることができたから、本来は母子ともに死んでしまうところを生きる機会が与えられて幸運だと感じている。でも、そんな身勝手で特殊な人生を強いたこと、それを隠していたことはやはり許せない。それを伝えた上での和解。そんな白黒つかない折り合いのつけ方も大人らしくて良かった。マックスとの結婚式に乱入してきたのは、逆恨みしてベラたちの人生を壊そうとしたダンカンと、彼に連れてこられたベラの“母親”の夫。肉体は彼の妻なので、彼はベラを連れ戻そうとする。ベラも、彼が母親と、そして自分の過去でもあるため、知るためについていく。ダンカンと旅に出たときもそうだが、彼女の「悪い結果もあるかもしれないけど知りたいから行く」という権利がまかり通るのが良い。元夫について行くと、彼は使用人をいじめて喜ぶ最低の人間だった。やはりベラを縛り付けようとしてくる。ベラにとっては、序盤のゴッドやダンカンのように自分を縛り付けようとする相手と再びの対峙。世界を知り、自分の思考を持って生きることを知ったベラが、やり残しと向き合う時間。ベラは彼の魔の手をかいくぐり、逆に彼が被弾する。支配に反抗するだけでなく勝てた、スッキリする決着。

人間は、成長しても哀れなり。
瀕死の元夫を家まで連れ帰ってきたベラは、マックスに彼の手術をさせる。その理由は「死ぬところを見たくないから」という道徳のある言葉だった。しかし、ラストシーンで元夫を無事助けたわけではないと分かる。ゴッドがベラと和解もできて安らかに逝ったあと、ベラや残った人々は幸せに暮らす。そこに、元夫の体に羊の脳が入った生き物がいる。元夫もえぐい改造手術をされていた。全然、健全なハッピーエンドには着地しなかった。それは元夫を死なせていないと言えるのか。自分を苦しめた手術を他人にも施して悪意があるんじゃないか。羊にとっても残酷なんじゃないか。でも、成長したからと言って完璧になるわけじゃない。人間は成長しても不完全な、どこまでいっても哀れなるもの。それでも生きることには十分な価値があるし、それでいい。