Kuuta

陪審員2番のKuutaのレビュー・感想・評価

陪審員2番(2024年製作の映画)
4.1
2024年のベスト10をコメント欄に書きました。

いつの時代も評論家は「映画は衰退した」「ハリウッド映画は死んだ」と書いてきたし、永遠のオワコンとして映画は存在していくのだと思っているが、イーストウッドが今のアメリカ映画の象徴であることは間違いない。決定的な一線を超えてしまった感じはする。

新作レビューも最後かもしれないと思うと筆が進んでしまい、ダーティハリー、許されざる者、グラントリノ、クライマッチョのネタバレを含む内容になっています。

▽イーストウッドの終活完結編
ローハイドの役名Rowdyを冠した飲み屋で事件は起きる。JKシモンズ演じるチコウスキー陪審員は、グラントリノのコワルスキーと同じポーランド系かもしれない。彼は警察官のバッジを投げ捨てるダーティハリーであり、花屋の設定は園芸屋だった運び屋の主人公と重なる。

JKシモンズはダーティハリーのように、法を無視して正義を執行しようとし、作品から退場させられる。つまり今作は、イーストウッドが途中退場する話と言える。

イーストウッド始まりの地を舞台に、イーストウッドがいなくなった世界で、残された世代が正義を果たそうと自問自答する。イーストウッドは終活の一歩先の映画を完成させた。

▽陪審制は民主主義の学校
気に入らない情報をフェイク扱いし、まともな会話が成り立たない時代に「十二人の怒れる男」をぶっ込んできた姿勢に込み上げるものがあった。

陪審制はアメリカの民主主義の根幹を成している。偏見を持たずに討議すること、少数意見を尊重すること。出自の異なる市民が意見をぶつけ、真実を追求する。裁判が終われば、陪審員はそれぞれの生活に戻り、裁判を通して磨きをかけた公共の精神が街へ散っていく。

白人中年男性だけだった「十二人」から多様性を大幅に拡充しつつ、機能不全となったアメリカの民主主義の再起を試みている。1人だけ反対票を投じる序盤の展開は「十二人」の完コピだ。

▽イーストウッドと私刑
イーストウッドが映画ファンに神格化されるのは(日本においては国内批評家の影響が少なくないと思うが)、彼がハリウッド映画の伝統=西部劇を担う最後の存在であることが大きい。

かつての西部劇の勧善懲悪ストーリーは時代と共にファンタジーとなり、カウボーイによる法を超えた正義の執行、私刑は単なる暴力と見なされるようになった。西部劇的な振る舞いがどこまで許容されるのか、時代ごとに変化する問いの最先端に立ってきたのがイーストウッドだ。以下、私なりのざっくりまとめ。

ローハイド(1959-65)
テレビドラマ。既に映画界で西部劇は廃れ、テレビにしか居場所がない。

レオーネ3部作(1964-66)
米国で泣かず飛ばすの中、イタリア映画でブレイク。正義感に乏しく、私欲と人情でバンバン殺す

ダーティハリー(1971)
アメリカ復帰。西部劇を模した警察官。犯人を射殺し、バッジを捨てる。法に基づく正義の限界、私刑の肯定。ダーティハリー2では彼を模倣する自警団を批判的に描く。

許されざる者(1992)
善悪を完全に相対化し、暴力の重みを描いた現代的脚本。最後の西部劇

グラントリノ(2008)
私刑の否定。自分は撃たず、次世代のために撃たれて死ぬ。暴力の連鎖を止め、西部劇的モチーフに終止符を打つ

運び屋(2018)
イーストウッド自身の働き方、家族への贖罪。過去の罪を背負い続ける老人。

クライマッチョ(2021)
旅の末、アメリカに戻らない。「俺がどこにいるかはわかってるだろ?」=映画の中で生きる存在に。

▽植木屋
陪審員に犯人が紛れ込み、評決を左右するなど、司法も想定していない。今作も、法律が十分な役割を果たせない時、正義をどのように執行するのかが主題となっている。

ニコラスホルト演じるジャスティン(正義)は、真実を伝えるか、私刑に加担するか、コインの裏表で揺れている。正義の番人と同じように目隠しで登場する彼の妻は、部屋の電気を消し、彼を正義の暗闇に誘う。

陪審員の中には、考えを改める人もいれば、先入観に固執する人、聞く耳を持っているのか怪しい人もいる。現実のアメリカの様に、意見は二分され、平行線を辿る。一人一人を説得していった「十二人」の時代と比べ、対話しても溝が埋まらない。陪審員の力はもはや#2なのだとここで感じた。

橋の上でのやり取りで、ジャスティンの揺れは止まる。最後の議論は、画面にすら映らない。「十二人」との対比が意識されているのは明らかで、あちらのオープニングショットが裁判所を真正面に捉え、下から上へカメラがパンするのに対し、今作ラスト近く、ジャスティンとある人物が会話するシーンは、同じ様に裁判所を真正面に捉えながら、カメラは上から下へパンダウンしている。

落下死を巡るジャスティンのスタンスは、検事のスマホを拾い上げた姿から、泥に沈む石を見送るまでに変化し、「家族を守る」などと自己正当化に向かう。この手の空虚な父性にイーストウッドは手厳しい。

ラストの解釈は人それぞれだろうが、ジャスティンにとっての救済にも見えるし、私は「御託はいいから仕事をしろ、真実に喰らい付け」というイーストウッドからの叱咤だと受け取った。JKシモンズは退場するが、残された人の背中を押す様に「水をやらなくても長生きする植木」が終盤登場する。植木屋の魂は死なないのだと思った。
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