老夫婦はいつもニコニコと笑いを浮かべて当たり障りないことしか言わず、冷淡な息子や娘との対立やそれに伴う強い感情表現は回避され続ける。感情表現の抑制と、コンフリクトの回避が特徴的な作品である。
■「共視」の構図
無論ほかの小津映画にも見出せるが本作で特に目立つのが、人物が肩を並べて同じ方向を見つめるショットである。この老夫婦は畳の上で、熱海の堤防で、東京のどこかで、このポジションをとることによって双子山のような図形になる。そして天気やら何やら取り留めのないやりとりを続けるのである。このやりとりの無意味さにも、もちろん意味がある。会話を続けるという意味だ。こうして夫婦の一体感がずっと強調され続ける。
夫婦間だけでなく、夫と旧友がスナックで飲んでいるときもこの横並び構図が生まれる。このとき老人たちは息子の愚痴を言い合いながら人生の悲哀を分かち合っている。
他方、息子や実娘に対しては横並びがなかなか形成されない。注目すべき例外はある。例えば、母が持たないだろうと長男が告げて立ち去り、父と長女が取り残されるショットである。本作の憎まれ役である長女はワッと泣き出し、ほんの僅かの間観客の共感を誘う。長男が立ち去ることで、この2人は横並びの構図になる。だが、それも父が立ち上がることによって長く続かない。実際次のシーンでは、すでに長女はケロッとして喪服の用意などを話し合っている。
また、意外でも何でもないが、葬式においてこの「共視」の最たるものが登場する。最前列で家族たちが遺影を見つめるシーンである。このとき、整列させられた座布団は、そこに座る人物たちとともに長い直線を形成している。あまりに決まりすぎた構図で、小津の意図は知らんが自分にはわざとらしく思えた(実際これは自発的なものではなく、葬式という状況によって強いられた構図である)。そしてこの場面もまた、三男が席を外すことで構図が破壊されてしまう。
■シーンの反復
息子たちが帰った後のシーンは序盤を反復している。つまり実家住まいの末娘が職場に向かう玄関と路地のショット、通りかかりの女性が窓越しに挨拶するショットである。この反復は、悲劇により変容させられて尚も続く日常を示している。男にとってそれは、自分の死までの「余った時間」に過ぎない。このシーンの後に来る、ひとり黙々と団扇をあおぐ男やもめを捉えたショットは、その抑えられた感情表現ゆえにむしろ衝撃的である。こういうとき感情過多になってしまう作品も小津にはあるが、『東京物語』の突き放した描写からは悲哀などといった甘ったるい情感が立ち昇る気配すらない。ここにあるのはただの絶望である。