【記録と記憶と危機の予感】
この映画「占領都市」は、人々が毎日のように目撃する光景と、記憶に止めておくべき占領に伴って起こった悲劇をナレーションの言葉で記録し、そのミスマッチと違和感、そして、そこから考えられる、これから僕たちが世界中のあちこちで向き合わざるを得なくなるであろう危機感を表現しているのではないかと思う。
ヨーロッパの多くの映画祭でドキュメンタリー賞を受賞した作品だ。
実は、ナレーションで繰り返され、耳に残る言葉がふたつある。
“murdered” と “demolished”だ。
前者は、個人が殺された場合に、後者は、一家皆が殺害された場合と建物が取り壊された場合に一貫して使われた表現のように思う。
そこから無くなれば僕たちの記憶から自動的にかき消されてしまうものなのか。
2025年は、ドイツが西側諸国やソ連に降伏してから80年目の節目の年だ。日本にとっても、ポツダム宣言を受諾し無条件降伏してから80年経つことになる。
この作品で収容所に送られ殺害されたと伝えられるのは、多くはユダヤ人の人々だ。
現代、オランダも含めて多くのヨーロッパの国々が戦争のない時代を長く過ごす一方、ウクライナやガザでは激しい戦闘が行われ、ヨーロッパの都市でもテロなどは散発的に発生している。
そして、政治的な分断は取り返しがつかない程度にまで達し、戦争のない状態こそが普遍的な価値だと考えていたのに、民主主義が脅かされ、分断をどう回避するのか、僕たちは良い回答を見出すことができないままだ。
一見平和な光景で、過去の悲劇は書き換えられ、その陰で取り返しのつかない対立や分断が進行しているのではないのか。
民族主義や人種主義は普遍的な価値だろうか。
もし、格差など不公平が民主主義の弱点ならば、他に人類にとって共通の普遍的な価値とは何か考えなくてはならないのではないのか。
ヒトラーがレンブラントをドイツ人と書き換えようとしたこと、
オランダ人はアーリア人だがドイツ人には劣後するとされたこと、
ユダヤ人女性とアフリカ系オランダ人男性との子供がユダヤ教の洗礼を受けユダヤ人とされる場面、
気候主義のデモンストレーションは、
何かを示唆している。
そんな気がする。