ヨロコビのベッド脇にビンボンの人形を発見。
本作のような外連味のない映画が世界中で大ヒットしている事実は、自分にとっては非常に嬉しいニュースである。作品自体は「よく出来た続編」といった印象だが、前作から正統に世界を発展させていると思う。確かに偉大な1作目からの更なる飛躍は感じられなかったが、これは設定上やむを得ない面もあるだろう。ファンタジーであれば世界を好きに拡張できるけど、本作はそうもいかない。
■二重世界構造について
今作を観て、この舞台設定、つまり現実世界と脳内世界の二重構造について思うことがあった。なお、感情たちの自由意志や、ライリー当人のそれとの関係…といったことについては考えないようにしよう。
●その弱点
先にネガティブな指摘から始めると、「感情たちが現実に与える影響が限定的」である。感情たちはライリーの行動にしか影響を及ぼせないから。前作の場合、ライリーの決断によって結末が左右されるため、感情たちの頑張りは現実に強い影響を与えていた。だから、この点は可視化されなかった。
ところが今作では、ライリーが救われる決定的瞬間は、別の人物のアクションによって訪れる。したがって、ストーリーの最終段階において感情たちは受動的に状況を見守り、反応するしかない。我々が追いかけてきたヨロコビたちの冒険は、結局のところライリーの行動を改善できず、現実の問題を解決できなかった。もちろん、「だから失敗だ」と言いきることはできない。実際に出来上がったシーンは感動的である。現実世界ではライリーと友人の和解が、内側ではヨロコビとシンパイの和解が描かれ、ライリーの中で起きている変化が視覚化される。こうして映画は成功裏に物語を収束させている。とはいえ、「感情たちが直接的に外的現実に影響を与えられない」という『インサイドヘッド』世界の特徴は、話の組み立て方を間違えればたちまち弱点となるだろう。
なお、このクライマックスシーンを含め、劇中ではしばしば、感情たちが現実世界をあたかもスクリーンのように見つめるシーンが登場する。これは、感情たちと観客たちの同一化を狙った演出かもしれない。
●その利点
他方で、本作のような「二重世界」の構築が自由なアニメーション表現にとってひとつの土台になっている点に気づかされた。以前と異なりCGアニメーションはその「リアルさ」だけで人々の感動を呼び起こすことはできず、むしろ陳腐化している。これは多くの実写映画がリアルなCGに頼るようになってきた傾向と、無関係ではないだろう。現代の技術が、実際の俳優が違和感なく溶け込める世界を表現できる以上、やはりアニメーションは分が悪いだろう。
そのため、最近の3DCGアニメーションはさまざまな表現を模索するようになっている。そのなかで、ピート・ドクター監督の『インサイドヘッド』や『ソウル』のアプローチは、1作の中で世界を2つに分けることから始まっている。ひとつは「現実の世界」である。もっとも、この「現実世界」からして、本物の現実そっくりでない点は強調せねばなるまい。本作に限らず、ディズニーやピクサーはどことなくオモチャのような丸みを帯びた世界を創造している。
もうひとつの世界は、つまり『インサイドヘッド』でいえば「脳内世界」は、「現実世界」と対比させながら、その虚構的性格を楽しめるように出来ている。キャラデザからして、それは言えることだ。人間に最も近い容姿をしているヨロコビでさえ、体表から粒子のようなものが絶えず浮き出ており、存在のバーチャルさを忘れさせない。
本作で世界の虚構性を使ったギャグといえば、やはり児童向け2Dアニメや格ゲーのキャラが登場する場面である。前者はカクカクした動きで動画枚数の少ないアニメを再現し、後者は「髪が体に食い込む」「壁の出っ張りにすぐ引っかかる」など、往年のゲームの特徴をパロディ化している。
このように「あえて2D表現を混入させること」は、近年のCGアニメーションではよく見られる試みと言ってよい(『スパイダーバース』から中国の作品における水墨画の取り入れまで)。
●そのメッセージ性
『インサイドヘッド』の物語の特徴は、ライリーの物語だけを取り上げると、誰でも経験しうるようなエピソードに過ぎないという点にある。ピート・ドクター監督の『ソウル』を観たから気づいたことだが、そのことはコンセプトとして最初からあったに違いない。
『ソウル』ではハッキリとしたメッセージを打ち出しており、「人生のきらめき」の理解の変化を通じた人生賛歌となっていた(これは「自己実現」がもてはやされる風潮へのアンチテーゼでもあっただろう)。
そこから1作目やこの続編を考えてみると、ライリーに起きた出来事は後から振り返ればきっと人生の1ページでしかない。けれども、そのときの当人にとっては一大事だし、映画はその気持ちを第三者である観客にも共有させることができる。その装置がもちろん「インサイド」の世界、その住人たちの冒険である。つまり、頭の中ではとんでもないことが起きていて、彼らにとってはライリーが全てであり、彼女に起きることの1つ1つが災難だったり奇跡だったりする。こうしてみると、やはり『ソウル』とどこか通底するものを感じる。それはピート・ドクターの最も根っこにある主張なのだろう。
しかし、『ソウル』が完全には説明的ではないもののイイタイコトを台詞化してしまっているのに対し、本シリーズにはその必要性がない。それが世界観(設定)そのものに刻印されており、ストーリーもそこを汲んでいてしかも出来がよいために、一切の説明なく観る人はそれを感じ取ることができるからだ。