晴れない空の降らない雨

モアナと伝説の海2の晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

モアナと伝説の海2(2024年製作の映画)
3.6
 ジョン・マスカー&ロン・クレメンツの名コンビ(2018年引退)の手を離れた『モアナ』の続編。

■ストーリーとキャラクター
 展開は目まぐるしくて忙しない。おかげで飽きないが、リアリティを支える設定の整合性(ロジック)や、キャラクターの感情描写がそれに追いついておらず、ところどころで「?」が頭に浮かぶのは避けられない。
 設定については後で語るとして、ある意味では一番ダメな箇所を取り上げる。話の後半で、危うく新しい仲間が命を落としそうになり、船も壊れてしまう。誰もが意気消沈し、モアナも責任を感じて落ち込む。
 よくある谷間の場面であるが、端的にいえば、モアナたちが再び前を向くまでの流れが「やっつけ仕事」なのだ。マウイに励まされてモアナはすぐ立ち直り、戻ってみると仲間たちも勝手に立ち直っていて、船も修理してあり、仲間の結束も取り戻される。この谷があまり浅いから、カタルシスが弱い。
 しかも新しい仲間たちには、船大工、知識役、食糧役という役割分担があるにもかかわらず、彼らが真価を発揮する場面がない。とりわけラストの展開が完全にモアナとマウイ任せになっているのは致命的である。加えて、途中で仲間になるカカモラや、トリックスター的なマタンギといった別のキャラクターに埋もれてしまい、彼ら3人はドラクエⅢの仲間たちの如く(は言いすぎました)無個性で目立たない存在になっている。

■シリーズもの予定だった続編
 この続編、もともとはシリーズものとして配信される予定だったということである。それだけ時間をかける予定だったストーリーを、1つの映画に作り直した結果こうなったのだろうと思う。というか詰め切れておらず、3作目がほぼ確定しているのだが。
 「シリーズものっぽさ」は話運びの慌ただしさ以外にも言える。本作のラストで主人公が更なる力を手にすると同時に、より強大なボスキャラも姿を現した。こういうパワーインフレはシリーズ化するとほぼ避けられない事態だ、
 
■設定の不明点
 よく分からないことが幾つかあったのだが、まずなぜモトゥフェトゥという島を見つけないと他の島の部族も見つけられないのか、そのロジックですでに躓いた。もちろん原因となるエピソードは紹介される。「嵐の神ナロが人間たちの力を恐れて分断させた」という、バベルの塔を彷彿させるものだ。それは分かったが、解決するのになぜその島が必要なのか、最後まで説明がない。
 また、クライマックスにおいてその島にモアナたちが辿り着くことが勝利条件とされるが、なぜこの島に人間が触れるとナロは退き、魔の海が人間たちの手に取り戻されるのか。この辺りの説明もない。
 念のため言うが、自分はディズニーアニメに「論理的に不備がなくて、細部まで行き渡った設定」を要求しているわけではない。しかし、何だかよく分からないまま、とにかく「ナロが暴れる嵐の海で、頑張ってマウイが島を釣り上げ、モアナたちが上陸する」という最終作戦が決行されるのでは、あまり気持ちが乗らなくなってしまった。
 
■作品世界の成り立ち
 他にもイイタイコトがないでもないが、本作の一番重要な問題に向かおう。ずばり「この世界における人間と神々・怪物の関係」である。
 この辺りの詳細は1作目の時点で不明瞭だったが、そのときは問題にならなかった。しかしシリーズとして続けるとなった場合、主人公たちが住まう作品世界についての説明はほぼ不可欠である。が、尺とエンタメ性の都合であろうが、本作はそれを割愛した。そのためこの世界がどういう風に成り立っているのか分からなくなかった。
 その結果、主人公たちの目的―手段を観客に腹落ちさせないまま、何となく盛り上がって何となく終わってしまったのである。もう少し話を整理してくれれば、「なるほど、神々の支配から人間が自由になる話なのね、モトゥフェトゥはこういう理由で沈められているのね、云々」と見通しがついたはずである。

■テーマとか目的とか(「物語」とは?)
 最後に、本作のテーマの展開の仕方も問題を感じた。
 作中、登場人物の口からは「物語」というワードが連呼され、劇中歌の歌詞にも登場するのだが、結局のところ何が言いたいのかよく分からなかった。例えば「モトゥフェトゥを見つけなければ島の物語は終わってしまう」とか言われるが、ここでいう「物語」とは命運と同義であり死活問題なのか、それとも単に「発展性がないよね」という問題なのか。
 見た感じ後者だと思うが、本作において「物語を続けること」は具体的にどういうことであり、また「どういう意義があるのか」、これも伝わってこない。伝わってこないというか、何の説明もされない。
 また、目的地であるモトゥフェトゥが意味するものとは「他の部族たちとの再会」なわけだが、それがなぜモアナたちにとって命を賭すほど大事なのか、それと「物語」の間にいかなる関係があるのか、といったことも全く分からない。
 
■というか志を感じないんですよ
 繰り返しになるが、本作はもともとシリーズものとして配信される予定だった。シリーズものであれば話の途中で設定が伏せておかれることが通常であり、本作の説明不足もそのようなものとして理解してあげるべきなのかもしれない。

 だが自分が抱く懸念は、本作単体にとどまらないものだ。
 はっきり言えば、本作からは志を感じない。出来には失望させられた『ウィッシュ』だが、「こういうテーマでやりたかったんだな」という制作陣のお気持ちは察せられた。
 本作にそういうものが無いとは言わないが、そもそも希薄である。本作はただ、興行的に失敗しないために、視聴覚的に快を与えるシーンをつないで出来上がったような印象を受けるのだ。子どもは満足だろう。子どもが満足すれば、親も満足だろう。
 本作がジェットコースター感が極端に強い作品になった裏側で、上記のような意志決定があったとすればだが、近年のディズニーの長編アニメーションの興行的不調にその原因を見出すことは的外れではないだろう。そして、そうだとすれば、続編ものだらけの今後のラインナップも同様の方向性でつくられる可能性が高いだろう。

■音楽
 映像面ではしっかりと劇場版のクオリティに仕上げてくれて、そこは本当によかった。海はもちろんだが髪の毛の表現に感動する。多数あるミュージカルシーンもいずれも良い出来であり、本作にかろうじて好意を抱けるのはこれらのおかげでとにもかくにも退屈せずに済んだからである。
 だが、ここにもケチが付かなくもない。前作の《How far I’ll go》ポジションにある《Beyond》がとにかく地味で陰気な曲調であることだ。そのこと自体は問題でないが、話の雰囲気にあまり合っていない。というのは、今回の船出では前作のような父親との強い対立もなく、島に差し迫った危機もなく、モアナは孤独でない。だから、この曲で歌われるモアナの不安があまり分からない。
 どちらかといえば、話の雰囲気を調整するべきだったと思う。つまり、1作目に劣らぬくらい状況が深刻であるとか、モアナの内なる不安に観客が感情移入できるような流れをつくるべきだったのではないか。