shunsukeh

めまいのshunsukehのネタバレレビュー・内容・結末

めまい(1958年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

この映画は、サスペンスとしてはいくつかの綻びが見られる。
ギャヴィン・エルスターの犯罪は、多分にスコティの選択にその成否がかかっている。まず、スコティがギャヴィンの依頼を受けるかどうか。ギャヴィンは最初は断っていたスコティにジュディが演じるマデリンを見せることで引き受けさせることに成功する。確かに、マデリンは魅力的だが、だからといって、スコティが必ず仕事を引き受けるとは限らない。ただ、これはギャヴィンがスコティを落とすために放った第1の矢で、駄目なら第2第3の矢を放つつもりだったのかも知れない。それから、スコティがマデリンを追って教会の塔を昇る時に、結果、高所恐怖症のために登り切れなかったが、必ずそうなるとは限らなかった。彼が恐怖に打ち勝って登り切れる可能性もあった。これについては、もし、ふらふらになっても彼が登り切ったならば、彼も突き落として心中を装ったのかも知れない。
更に、ジュディは、なぜ、スコティが住むサンフランシスコにいつづけたのか。如何に広い街でもばったり出くわす可能性はあるし、ジュディは百貨店に勤めていたので、それはなおさらだ。これについては、ジュディはスコティを愛してしまったので、もう一度、会うことを望んだから、と考えられる。しかし、ギャヴィンからすれば、それは恐ろしい話で、スコティが利用されたことに気づき、犯罪を暴かれるか、もしくは、スコティとジュディが結託して自分を脅すことも考えられる。ギャヴィンにとってはジュディがサンフランシスコに残ることは以ての外である以上に彼女の存在自体が爆弾のようなもののはずだ。ギャヴィンは何とかすべきだった。
他にもあるが、これだけ見ても、緻密に出来上がったサスペンスとは言えなさそうだ。
しかし、ラヴ・ストーリーとしては秀逸だ。
ジュディはマデリンを演じていながら、スコティを愛してしまう。スコティはそのマデリンを愛した。
本物のマデリンが死んだ後、ジュディはサンフランシスコに残った。それは、サンフランシスコにいるスコティにもう一度会いたいから。なので、彼女は会ったときのシミュレーションを何度も頭の中で行っていたはずだ。もちろん、自分はマデリンとは全く関係がない別人として振る舞う。その上で、自分がマデリンだった時と全く別の愛が二人の間に生まれることを願ったのではないだろうか。
一方、スコティは死んでしまったマデリンの面影を街のあちこちで見つけては、マデリンではないことに気づいて失望し、そんな繰り返しから抜け出せない自分に苦しんでいる。だから、街でジュディを見つけたとき、もし、彼女がマデリンだったらそれが何を意味するかなど考えずに、追いかけてしまう。自分を見つけてくれたスコティが部屋を訪れたとき、ジュディの心はとても躍ったはずだ。しかし、抱きつきたい気持を抑えて、スコティをストレンジャーとして扱い、自分がマデリンではなくジュディであることを証明する。ジュディは、一旦、スコティの前から消えようとするが、そうしなかった。新しい愛が生まれるかもしれないと思い、それに賭けたのではないか。
しかし、スコティはマデリンが忘れられず、ジュディの上にマデリンを蘇らせようとする行為にとりつかれる。そして、ジュディがマデリンそのものに仕上がったときその姿に陶酔する。また、おそらく同時に、マデリンとして自分が愛したのは実はジュディだったのではないかという疑いが生まれ、確信に向っていった。
ジュディは自分は愛されておらず、スコティが愛しているのは自分が演じたマデリンであることに傷つき続けるが、それでも、スコティを愛していて、彼のそばにいられることを望んでしまう。ジュディは新しい愛は生まれないと絶望しただろう。
彼女が取り得べきもう一つの選択肢は、スコティが愛しているマデリンは、本当のマデリンではなく、マデリンを演じていた自分、つまり、ジュディ。あなたが愛したのはジュディ、私。と言うことだったが、それは、彼女がスコティを欺して利用していたこと、そして、自分の犯罪をスコティに告げることであり、マデリンとしての愛の終わりも意味していた。
この映画は、こんな絶望的な愛の葛藤を描いている。
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