このレビューはネタバレを含みます
準備をさせてくれる場所と、自分の力で生きる子ども。
まず、公開の仕方の特殊さについて。
児童養護施設に密着したドキュメントである本作は、今後の配信やソフト化の予定はない。それは取材を受けた人たちのプライバシーを守るため。劇場でのみ観ることができる映画。また、鑑賞者には、取材を受けた出演者への誹謗中傷や勝手な憶測をSNSやネットで書くことを控える注意喚起がされている。同じチームが作った映画で、中学校の一クラスを密着した『14歳の栞』と同じ方法。その秘匿性が話題を呼んで売り上げにつながる部分もあると思うが、それ以上に鑑賞者にとって、手渡しで受け取りに行ったような特別感がある。それだけリアルなものを受け取った自覚が持てる公開方法。
冒頭、児童養護施設の職員の男性が、自分が送り出した施設出身者でその後どんな進路に進んだ人たちがいるかを話す。いろんな人がいる。いろんな人がいるのって、施設出身者でなくても同じだから、普通だな、と思った。と同時に、その普通を過ごすために踏ん張る量や内容が違うんじゃないかと思った。
ただ、映像で見て人の苦労を勝手に慮ることも傲慢に感じた。ドキュメントを見て何かを思うのは、見ているこちらは傍観者の無責任を自覚しないといけない。
自分のいる場所を何と捉えるか。
自分が暮らす施設をどう捉えているか、意見は様々だった。小さい子が、「ここは家とは言わない。施設だから」と言う。これは別にネガティブな発言ではなく、認識を言っただけだと思う。そこに、聞いたこちらがいちいちニュアンスを持ち込むのが余計なお世話なのかと思った。「家族みたいなもの」と言う子もいれば「家族ではない」と言う子もいる。
家族みたいと思わせる環境を作れている職員さんも素晴らしいけど、別に全員がそう言い切れる必要もない。家族という感覚ではなくても、一緒に暮らしているのは事実。
一人の子が、友達に施設の外観を「ここおれの家。大きいでしょ」と紹介したと話した。いわゆる家族で過ごす家とは違うけど、「大きな家」。存在が、という話でもない。建物として大きな家。当てはめる必要はない。それだけで十分だと思った。
さらりと出てきた素敵な言葉。
一番印象的だったのは、園長先生の言葉。
18歳を迎えた一人の子が、施設を出て独り立ちする日、園長先生にも挨拶をする。そこで園長先生が言ったのが「何か困ったら来なさい。何かあったら言うのが自立だから」。この言葉について詳しい説明はない。あくまで、ドキュメントでずっとカメラを回していた中で捉えられた言葉。でも、自立という単語のイメージと真逆なその園長先生の言葉は目を惹かれた。
また、ある年長組の女の子の言葉もユニークだった。
大人や年長者が、海外の養護施設に手伝いに行く。日本から赴いた女の子がそちらの国の施設を見て「私は日本でぎゃーぎゃー言ってる。みんな言ってなくてすごい」と言ったあと「こっちのみんなの生活を一日見てみたい。本当はぎゃーぎゃー言ってるのか見たい」と言う。文句言ってなくてすごいな、ではなく、裏では自分と同じようにぎゃーぎゃー言ってるのかな、という発想が面白かった。
どこにいたって、それぞれの状況の大変さがある。自分のとは違う他人のそれを覗くと、違う世界に見える。ドキュメントなんてまさしくそう。でも、それを自分たちと同じ、メンタル超人ではなく同じ人間のことと思って受け取る。その視点が素敵だ。
一人で耐えないと、よりつらいときもある。
約束の日に親と会えなかった子がいた。その子は、淡々とした口ぶりだが「今度お母さんと出かける」と繰り返し言っていた。内心、嬉しそうなのが見て取れた。しかし、当日その子は約束の時間になっても施設にいた。スタッフがお母さんとの予定はと尋ねると、「今日来ないって」と答え、「外行かなきゃ」と運動しに行った。淡々とした口ぶりだった。
よく「大人だってつらいときは泣いていい」と言うが、子どもがつらいときに泣けないんだ。人間、寂しい・悲しいと思っていたら苦しすぎるから、一人で強くあろうとしないと耐えられないときもある。
また別の子は、自分の家系図を見せられ、いろいろと説明を受けたと言う。そのことについて彼は「空白が埋まっただけ」と言っていた。こちらは勝手に、空白が埋まることが大きなことだと思っていたので、この言葉が予想外だった。
自分のルーツが分かったら解決に向かって話が進むなんてのはフィクションだけ。空白が埋まっても、情報でしかない。
また、母親と会うようになって良好な関係を築いている女の子は、18歳の独り立ちのタイミングで、一人暮らしを選ぶ。その理由は「ママといたら甘えちゃって、今まで自分でできていたこともやらなくなりそうだから」。
園長先生の自立についての言葉とは裏腹に、取材を受けた子たちには、自分一人で受け止めなければいけない局面が多いように感じた。誰かに甘えても解決しないことがあるのが分かっている。
だからこそ、園長先生は「何かあったら言うのが自立」という価値観を大切にしているのかも知れない。
人間は他人のおかげで生かされている。
ある男の子は、進学して今度から制服でネクタイをしないといけない。結び方をネットで調べるも複雑で、もう分からないとイライラが募る。それでもトライし続けていると、ネクタイを結ぶことに成功。結べた瞬間の、驚いてからちょっとだけ嬉しそうな顔になり「できた」と言うのがすごく愛らしかった。初めての頃のネクタイは特に、大人と同じことをして、自分も大人の世界に近づく象徴だと思う。
小さな女の子が、年上の女の子の成人祝いの日に「おめでとうって言いに行きたい」と職員さんに確認してからおめでとうを言いに行く場面があった。それには、人が喜ぶこをしてみたいという高揚を感じた。
また、ちょっかいをかけがちな子が、山登りのときに別の子の靴紐を結んであげている場面もあった。
子どもは常に成長し続ける。勝手に育っていくとも言えるし、それができる環境を大人が保っているから成り立つことでもある。施設もそうだし、社会全体がそう。
たくさんの子と職員が入り交じって施設の庭でバーベキューをしている様子を見たとき、密着を受けた複数人の生活が同時進行しているのを感じた。見えないところでも、たくさんの人の行動がつながっている。自分も、誰も彼も、たくさんの人によって生かされているんだなと思った。
家は子どもを世に出し、役目を終える。
映画の最後、陸上をやっている青年が自己ベストを出す。彼は事前に「自己ベストを出すときって、スピードが出すぎて転びそうになる」と語っていた。自分でも追いつけないくらいのことを自分がやる。
子どもは家を出たあと、世界に飛び出して、自分はこんなことができるんだ、自分はこんなことを感じるんだ、と自分を味わう人生が始まる。家は、世界に対して子どもの可能性を、子どもに対して世界の可能性を送り出す場所。