優れて、記録の文脈にある映画だった。記録さるものたちだけではなく、記録する者が顕在化している。それは辿々しいナレーションであり、猫のインサートであったりだ。奥三面の神事もカメラのレンズを介することで対象として異化される。アップで小物のように捉えられた団子や絵馬は神事の神聖な全体性とは一つ離れたものとして記録される。明らかに奥三面の人々とは異なる質感の対象に仕立て上げられているといって良い。カメラを回す人間の非透明さが発露されていると言えるだろう。
また、熊狩の同行を交渉する場面になると監督が自らフレームの中に入る。熊狩もある場所を境に後景から追いかけるだけだ。この辺りに、カメラの追跡や透明性の限界を見せていた。
そして、本作の極め付けは過去の時を繰り返さんとするラストにあった。雪山を駆け上る男たちは脇目も振らずに進んでいく。ここはかえってカメラはその透明性の性質にとことん近づいている。しかし、記録の刻印は透明性に本来反するものだが、そのギリギリなラインに切迫していたのではないだろうか。