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『日記 子供たちへ 4Kレストア版』に投稿された感想・評価

メーサーローシュ・マールタ監督日記三部作第一作。

上映が決まってから楽しみにしていました。満席だったしすぐに予約してよかった。

さて、本作はメーサーロシュ監督の自伝的要素を戦後のハンガリーの政治・社会情勢も踏まえて描いた劇映画である。まさに主人公・ユリに監督自身を仮託して、作家性の淵源を明らかにしている。それは①他人同士の女性が親密になる可能性②全てを明らかにする記録性③アンチ・ハッピー・エンドである。

以下、ネタバレを含みます。

『アダプション/ある母と娘の記録』『マリとユリ』『ふたりの女、ひとつの宿命』の主題と言えば、他人同士の女性が親密になる可能性である。どの作品も登場する二人の女性は血縁関係ではない。年齢も階級も違う。共通点は女性ということのみ。しかし結婚・復縁・出産といった家族の出来事に二人して奔走することによって、家族関係とも呼べる親密さを獲得するようになる。ではなぜこの主題が反復して描かれているのか。それは監督の出自のためなのは本作から明らかであろう。

ユリは戦後、ハンガリーに戻ってくる。それも彼女が幼くして父を不当な逮捕による粛清で、母を病によってどちらも亡くしてしまうからだ。そのため、ユリは母の妹・マグダに引き取られる。ユリにとってマグダは血縁関係者ではある。だが、彼女が幼いことや離れて暮らしていたことから他人同然といいだろう。つまり他人同士の女性の一方は常にユリ=監督自身であり、マグダといった他人とどう親密になれるかが常に問題意識としてあるのだ。

ユリとマグダにも家族の出来事が生じる。それは「子どもの保護・教育」である。子どもとはもちろんユリなのだが、その出来事が日記のように生活の記録として断片的に綴られる。

その綴り方は全てを明らかにする記録性である。それは一日を仔細に語ることや毎日を語ることでもない。カメラの機械的無関心によって、出来事を人間のみたいように記録するわけではないということだ。ユリは監督の化身である。けれど監督はユリの心情・行動の全てを擁護するわけではない。

ユリはその出来事の中でマグダの気持ちに反して非行に走る。学校には行かずに映画館に通う。マグダの同志であるが、政治思想は異なるーそれは逮捕の可能性を孕むーヤーノシュと親しくなる。ヤーノシュと仲良くなるから、同世代の男の子には惹かれない。無断で家を出る。勉強をしない。マグダやその一家と不和が生じるから児童養護施設に行くことを懇願する。

彼女がそのような行動をするのは、本作の優れた記録性から明らかにされる。実の父母ではないから、「本当に」愛されていると思っていないし、分かろうとされていないと思っている。またそういった彼女の心情とは別にマグダや一家、同志の大人たちは政治状況から友人関係に緊張感があって安心できない。マグダは学校に行き、勉強しろと言うし、ヤーノシュはもう少し辛抱しろと言う。

だから大人がユリを理解していないからということで、ユリの行動を正当だと擁護はできる。と同時に、ユリは自分勝手で我が儘だという印象も拭いきれない。マグダやヤーノシュがそのように言うのもユリや将来を思ってのことである。それを子どもが分かれということも酷であり、できないから問題が生じるわけではある。しかしそういった印象を拭えないほど出来事や彼女らを重層的に描けているのは、全てを明らかにする記録性によることは言うまでもない。

この記録性は、物語に都合の良いハッピー・エンドを与えない。メーサーロシュ監督作品には、他人同士の女性が親密さを獲得したと思ったその矢先に再び断絶や破綻が訪れて、アンチ・ハッピー・エンドになる(予感を漂わせる)ことが多いのもそのためであろう。またそのアンチ・ハッピー・エンドさは、本当の愛≒親密さを実の父母の姿として理想的に導出していることとプロパガンダ映画の結末にも起因していることが本作から看取できる。

幼い頃にみた父母の姿は忘れられないほど幸せな光景だっただろう。しかしそれは理想であって、現実はギャップを埋められない。現実は理想と一致することはないし、超えることもない。だからハッピー・エンドを不可能にさせる。

メーサーロシュ監督がシネフィルとしてみていたプロパガンダ映画の異様な幸せは不快感しかないだろう。皆が反省・改心して、スターリンといった権力者や全体主義社会/国家に同化する。皆が一つになって合唱している。大団円となってハッピー・エンドを迎える。それは美しい。けれど誰にも理解されない個人であって、家族に近しい他人とも親密になれない、なろうともがいているユリ≒監督自身にとって、どれほど異様で不快なものであるかは想像に難くない。

このようにメーサーロシュ監督の作家性の淵源を劇映画を通して知れたのはとてもよかった。満席であったし、これから先、全国で順次公開されることになるだろう。ぜひ本作をみてほしいと思うし、できれば日記三部作の全てが、さらに言えば『Little Vilma:The Last Diary』も上映されることを期待したい。
reb
3.4
1956年、ソ連支配に反対する民衆蜂起“ハンガリー動乱“が起こるまでの、メーサーロシュ・マールタ監督の個人的記憶が、アーカイブ・フィルムを織り交ぜながら描かれた「日記」シリーズの第一作。

1931年ハンガリーで生まれた監督は、彫刻家の父がスターリン以前の共産党を支持したため追放され、家族でキルギス(旧ソ連構成国のひとつ)で過ごすが、彼女が6歳の時に父は逮捕され、母も出産で亡くなってしまう。
この父と母との幸せで美しい思い出の日々は、本作で何度も繰り返し描かれる。

孤児となった本作主人公のユリ(監督の分身)は、ソ連のハンガリー共産主義者のもとで養育され、戦後1947年に、共産党の重要ポストについている叔母マグダの助けで、故郷ハンガリーに帰って来る。
しかしマグダは、党幹部として富を占有して贅沢品に囲まれて暮らし、ユリが大切にしている両親との思い出を忘れさせようとする。
ユリはそんなマグダに反抗し、学校をサボっては映画館に入り浸る。
ここで映画監督としての下地ができあがったのだろう。
昔、映画を観ながら母に言われた「映画だから彼らは死なない。別の作品で他の誰かを演じ続けるの」という言葉は、監督の映画作りの大切な支えとなったに違いない。
そして、マグダの長年の同士だが、現政権に異論を唱えるヤーノシュと出会ったユリは、彼に亡き父の面影を見て、慕うようになる。
このカーダール・ヤーノシュという人物は、ハンガリーの政治家で、後に首相にもなる有名な人らしい。
演じているのは監督の当時のパートナーであったヤン・ノヴィツキ。監督の作品にはお馴染みの俳優さんで、本作ではユリの父親とヤーノシュを演じている。
スターリン主義の恐怖政治を布いていた共産党による一党独裁を批判したヤーノシュは、ユリの目の前で投獄されてしまう。
それはかつての父のようにショッキングな出来事だったが、スターリンの死後釈放されたそうだ。
1953年、獄中のヤーノシュと面会するユリの姿で本作は幕を閉じる。

1970年代の、偽りの民主主義や自由の中で、職場や家庭で女性が直面する様々な問題に光を当ててきたメーサーロシュ・マールタ監督。
ドイツとソ連に翻弄された時代を持つハンガリーという国を、強い意志と冷静な観察眼を持って見つめる監督の原点を、少しだけでも知ることができた、見ごたえのある貴重な作品だった。
yuzu
-
メーサーロシュ・マールタ、やっぱ面白い。

ここ数年、女性監督の特集組まれること多いけど、メーサーロシュ・マールタが1番好き。

相変わらず主人公の名前はユリちゃん。今回のユリは、なんと「だれのものでもないチェレ」の子だったとは。
※ちなみに主人公の名前がユリちゃんと書いて、昨年大ヒットした某特攻映画の主人公もユリちゃんだったな…とフラッシュバックしてしまったが、あんな特攻というか竹やり映画のことは忘れるが吉だ!

スターリンの相変わらずのナルシストっぷりもさすがだけど、トロリーバスの路線に自分の年齢つけるセンスは謎すぎた。

あと、お尻ペンペンもあるぞ!