邦題は「自由の代償」から「自由の暴力」に改題。ちなみに英語圏は「Fox and His Friends(フォックスとその友人ら)」。
主人公フランツ・ビーバーコップの名前の由来など他の方のレビューと重複するので詳細は省くが、ファスビンダー自身にとても思い入れのある人物の一面が投影されているのが分かる。
すでにファスビンダーは同性愛者であることを公にしていたが、いままでは本人のセクシャリティには若干の含みを持たせるぐらいではあったが、本作では直接的に描いていており、自身が同性愛者の主人公として出演している点なども絡み、ファスビンダー本人の人間関係を取り入れた私小説、もとい私映画のようでもある。背景には出自による経済的格差の縮図を描いており、戦後の西ドイツといえども偏見は根深くあっただろうし、当時の閉鎖的なゲイ社会を抉(えぐ)ったセンセーショナルな内容であった。
公開時は同性愛者団体から激しく糾弾されたようであるが、その中でフランツを演じたファスビンダーは中産階級の家庭でありながら、労働者階級で悲劇のゲイ青年を演じたことも一因としてあるだろう。自身もインタビューでは恋人役のオイゲンの方が自分に近いということを述べている。しかし過去作「聖なるパン助に注意」のようなプロデューサー役をファスビンダーが演じたところで面白味はなく、現場では暴君でしかない事実と逆転した被虐的なフランツ役の方がフィクションとして倒錯しているので、役回りや絵面としては適している。
しかしながら本当の意味において〝頂き男子〟とは一体誰なのかであれば、オイゲンよりも印刷所の経営が下手な父親であり、そして骨董品商を営みながら、その界隈の胴元でもあるマックス(カール=ハインツ・ベーム)ではないだろうか。それはラストの場面で野垂れ死んだ駅のホームで偶然に通りかかったマックスと共に歩いていた男は、フランツの元恋人のクラウスであり、次のターゲットとして彼を狙っている節もあり容赦のない結末であった。
フランツとオイゲンとの同棲生活シーンは育ちの違い(一張羅の選び方や特に食事のマナー)を対比関係として如実に炙り出しており、それはゲイコミュニティにおける裕福層と貧困層による出自の違いを生活面で差別化して描いているようでもあるが、客観的にみればヘテロ同士であってもあり得る資本社会の形骸化でもある。その誇張された露悪性に批判を受けたと前述したが、本作で歌手を演じた女優イングリット・カーフェンとの婚姻関係(2年後に破綻)があった過去の事実もあり、バイセクシャルであるファスビンダー自身の中にある無意識から生じたホモフォビアHomophobia(同性愛者、同性愛による嫌悪感)が、このような話を作ったのではないかという見方もあるのではないか。
撮影監督のミヒャエル・バルハウスの早撮りは、せっかちからなのか粗さも目立つが、基本的に記憶に残るショットは多く、スコセッシが惚れ込んだ理由も頷ける。そしてブリギッテ・ミラは宝くじ屋の叔母さんとして少ない出演であり印象には残った。そして旅行先で出会うエル・ヘディ・ベン・サレムも出演をしていたが、プライベートではファスビンダーの恋人であったが、ホテル側から拒絶されるカットは破局後のトラブルと収監中の自死を知っているので、偶然とはいえども将来を暗示しているようでもあり、何とも歯痒い場面でもあった。
ドイツの格言で「Den letzten beißen die Hunde」という言葉がある。これは直訳すると「最後の者が犬に噛まれる」という意味であり、徹底的に搾取されることを表しており、日本でいえば「骨の髄までしゃぶり尽くされる」という意味である。
「くじの後 散るこそいとふ 死にゆくも」
〈ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー傑作選〉
[Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下 19:10〜]