ルサチマ

ジ・アザー・ウェイ・アラウンドのルサチマのレビュー・感想・評価

4.7
古典のロマンチックコメディを現代にアダプテーションしていて、敢えて言うなら正しく女性映画として描かれていて泣ける。
いかにもインテリシネフィルって感じだけど、不思議とそれ以上にやりたい放題本能に従ってる感じで嫌味はなく(ベルイマンのタロットカードやトリュフォーの墓参りシーンなどのごった煮感にとどまらず、デスクトップ上にあるポルトガルのシネマテークの写真データなど小ネタも楽しい)、ルノワール的な俗っぽさと風通しの良さを持っている清々しさに感動を誘われる。実際この映画をいわゆるロメールでもギヨームでもホン・サンスでも何でも構わないが、カップルのいざこざを楽しむ映画として見ようとする者にとっては人を食った映画に見えるのかもしれないが、むしろ同じ話が何度も反復される過程で、ルノワールの『河』やフォードの『ドノバン珊瑚礁』、もしくはモンテイロ『j.w.の腰つき』同様に、永遠に人生のリハーサルが続く哲学的な問答として受け止めることができれば、なんともこの作中のカップル及びその交友関係の生き方そのものが切実なものとして浮かび上がるだろう。
進んでは踏みとどまり、時に逆再生するように、人生を幾度となく辿り直しながらより良く生きようとする意志。当然終わりがある人生の枠組みの中から抜け出せないのは承知の上で、そこに小さな中断を取り入れながら、人生を無理に延命させるのではなく、寧ろその中断によって周りの人間をも巻き込みながら小さな再生を試みていく身振りこそ美しい。だからこそこの映画のエンディングは寧ろ単なる幸福的なイメージに溺れることなくその裏側にある人生の終わりを意識させるものになっている気がしてならない。
ルノワール的な自然主義リアリズムを真っ向から引き継ぎついで、ワンカットの中で手前と奥とで常に人物をアンサンブル的に配置して演出しつつ(これだけでも現在この水準で演出できる作家が果たして何人いるだろうか?)、手ブレも含めて全てを撮影の(創作者の)力でコントロールせずに記録することで古典的な形式美を破壊しながら、同時に通常の日常生活そのものが撮影の記録であるかのように変貌していく。それゆえにオフで響く音声も、画面の奥にピンボケで登場する人物も疎かにされることはない(実際画面奥のピンボケ状態からレストランへ入店するのはヒロインに他ならない)。
カメラによって眼差される意識の元に発せられる言葉の響きが、ありのままのその人物の音声とは異なるように、映画という行為を口実に人々がより美しく生き直すことを追い求めるようにトルエバの非人称的なカメラポジションは設計されているだろうし、どれだけ一見素人くさくカメラの初動が記録されたとしてもそこには絶えず今この瞬間に人生を美しく生き直そうとする者たちの美学が緊張感とともに立ち現れている。
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