まともに数を見たわけでもないが、メカスの編集は非常に滑らかだ。詩的なショット間の繋げ方が無理に見える対象をいとも簡単に結びつけてしまう。
そして、滑らかな編集は事象を並列化する。この滑らかさは、比喩的な想像力の結びつきには至っていない。民族浄化と飢餓は性質の異なる暴力だ。どうして津波と紛争を結びつけられようか?自身の外にあるニュースに対する関心は露骨なまでに記号的だ。対して、箱庭化された自然に生命を見出そうとする試みはもはや欺瞞にも近い。レンズと花が接触するほどに接近して、風にゆらめく様でアニメーションに近い動きを見せたところでそれは欺瞞的だ。ショットが撮られた場所からの指向性がわかりやすく図式化されている。おそらくこれは意図的な挑発なのだろう。ハイデガーの手近存在と手許存在もイメージさせる。ニューヨークに屯する芸術家が触れられる存在なんてせいぜいこんなものだ、と。ヴェルディだからイタリア旅行のプライベートを挿入するステレオタイプさからも窺い知れる。
歩道を進むショットがあるかと思えば、アングルを正反対に向けて歩いてきた道を振り返る。『リトアニアの旅への追憶』ではショットの反復の形でノスタルジーを見せていたが、本作においては表現形式や意味合いも異なる。
eternallyが白みと音の止まりで示される。瞬きに擬した黒みとの二項対立で示されることで感知不可能な永遠が見出される。遺作のラストショットとしてみれば不足はないだろう。