マルチカメラの撮影も録音も技術的な力量は相変わらず凄いのだが、正直セラが闘牛を撮ると聞いて想像したものの範疇を超えず、いかにも現代映画の規範にまとまったものに留まるし、野蛮なようでいて実際のところお行儀いい知性と倫理のもとに撮られた作品という点で驚きは特にない。
いかにも研究者や批評家が喜ぶコードを押さえているという感じがセラを見ていていつも歯痒く感じる。
今作でも観客をオフの声援の声の他には排除して、闘牛士をマルチカメラで追いながら、闘牛との命懸けのやりとりを緊張感を損なわず捉え続け、しかもそれを決して英雄的に捉えるというよりは、距離を取りながら、牛の表情と呼吸をも絶命するまで決して損なうことなく捉える点で、闘牛文化そのものへの批判的な目配せをしているのは明らかであるし、決闘後、日が暮れていく時間帯にホテルへ戻る車内の捉え方もまるで牛のフォルムを想起させるかのような空間の切り取りになっていて、且つそこでもまたマチズモ的な英雄称賛を響かせつつ、闘牛士当人はそれをなんとも言うことなく静かに聞いている表情を記録している点あたりに徹底的な雄々しさへのアイロニーを感じはする。
それにホテルの着替えのシーンにおいても、あの闘牛の衣装がいかに女性的な彩りによって血を隠すものであることを示すために(さらにいうと、牛に対してもリボンなどの女性的な装飾によって着飾らせている)丹念に撮っていて、今作が題材とは裏腹にフェミニズム的な視線のもとで記録された映画であるのは一目瞭然。
しかしそれらがどれも知性が先行した儀式めいた行為の記録としか思えず、潔さというよりもむしろ生真面目な堅苦しさで押し通されたという印象。