【選択のの続きと教訓/X-MENオリジナル三部作の③/X-MEN&デップ祭り3️⃣】
現代の人間社会の嫌な一面を見せられているような気がする興味深い作品でもある。
”「キュア」によってミュータントから人間に変えられる”
日本の学校教育は没個性的で”協調性”が主要な性格分析の重要な項目みたいなところがあってちょっとキモイ。協調性ほど具体性に乏しいものはない。
僕はアメリカの会社の日本法人に長く務めているが、人事評価の時の”協調性がない”はご法度だ。具体的に何が不足しているのか評価できない限り人事評価を行ったことにはならないし、評価者としては失格なのだ。
それに産業単位でも、競合他社がやってるから「うちでもやろう」みないなのを過去に何度も見てきたが、電機メーカーの場合、新興国の台頭もあって、競争優位とはならず、今ではそんな会社は見なくなった。 実際、現在株式時価総額の大きいハイテク企業はとても個性的だ。
様々な個性をもって役割分担をすれば社会はより円滑になるのではないのか。
「キュア」が全く必要ないわけではない。ローグがそうだ。
ケースバイケースなのだ。また、当然のごとく武器にさえもなる。マグニートはその対象だ。
終盤はかなり大げさなバトルになるが、クライマックスはジーンの物語だ。
フェニックスと称され、スコットやチャールズを亡き者にし、ブラザーフットに与し、無敵の能力を誇ったに見えたが、ローガンが立ちはだかる。
ジーンの葛藤は犠牲を払っても何も変わることがないという、僕たちの世界のジレンマのようにも思える。
平和を願い国連を組織しても、平気で内側からルールを無視する連中も多くいる。
口では平和と言いながらも、都合で立場を変え、バランスと称している連中もいる。
この「ファイナル・ディシジョン」のオリジナルタイトルは「The Last Stand」だ。
最期に立っていたのはローガンだが、それは孤独の象徴だったようなミュータントが、他の仲間と手を携え、自分たちに銃口を向けるような人間を守護し、共生を第一に考えるシンボルとしてのメタファーとして表現されているのだ。
だが、結末はやはり無力感が残る。戦いには無力感はつきものだ。これを決して僕たちは忘れてはならないということではないのか。