何の番組だったかは忘れてしまったものの、かつて国際司法裁判所で裁判官を務めた女性が、「日本の学生にアイデンティティという言葉を使っても通じない」と言っていたのが印象に残っている。
僕自身の経験から言っても、かつてハーフの方と親しくなったときに、ルーツという言葉をすぐに理解してもらえたのに対して、ほとんどの日本人にこの言葉を使っても、どこか「?」が点灯していることからもよく分かる。では、人種として日本人でしかない僕に、何故「ルーツ」という言葉が定着しているかと言えば、絶えず、どこかしらアイデンティティが揺れ動いてきたからかもしれない。
また、そのことを内省的に捉える習慣が僕にはあり、そのようにしてしか生きてこられなかったところもある。
物語の筋立てを追ってみるなら、不倫関係にあった女が、虚しさの果てに相手の男とその妻との間の赤ん坊を誘拐し、数年間に渡って逃走を続けながらも豊かな愛を注ぎ、最終的に逮捕されたのちに、幼児は生家へと帰るものの、親子ともに不安定な関係のうちに育ったというもの。その傷跡は成人してからも続いている。しかし、愛された実感は、誘拐されていたときの記憶のなかにこそあった。
誘拐されたときにつけられた名前は薫。
生家へ戻ってからつけられた名前は恵理菜。
血縁的にも法的にも、本来の名前は恵理菜ではあるものの、すべての情操の礎(いしずえ)を築いた名前は薫ということになる。そうした状況に置かれたときに、アイデンティティ(自己同一性)が揺らがない訳がない。
物語としては誘拐という極限的な設定を用いながらも、そうした舞台設定のなかで描いているものは、僕たち1人1人に光を届けながら、影も落とし続ける存在の根拠ということになる。偽りの関係のなかで結ばれた本当の愛は、正しいはずの関係のなかで結ばれることはなかった。
僕の通った大学は、プロテスタント系のキリスト教を建学の精神としていたため、聖書に関する知識や教養に触れようと思えば、いつでも触れることができた。信仰とはまったく別の問題として、聖書は思想的にたいへん面白く書かれている側面がある。お気に入りのエピソードはいくつもあり、イエスがキリストとしての道を歩み始めた際に、洗礼(バプテスマ)を受けたシーンもそのうちの1つとなっている。
ある日、バプテスト(洗礼を授ける人)のヨハネのもとにイエスがやってきて、洗礼の儀式をしてほしいと頼む。しかし、神の子に対してヨハネは恐縮する。それでもと頼まれ洗礼を終えると、天から声が聞こえてくる。
これはわたしの愛する子
わたしの喜ぶ者である
この父なる神の言葉がよく出来ているのは、前半は愛について、後半は承認について端的に言い表している点にある。つまり人間の存在基盤には、「愛」と「承認」の2つが両輪のように欠かせないことを物語っている。
本作の薫/恵理菜に引き寄せてみるなら、愛を受け取ったのが薫であり、承認を受け取ったのが恵理菜だったことになる。そのようにして、薫/恵理菜はアイデンティティを引き裂かれることになった。そして『 八日目の蝉』が中心的に描き出しているのは、このようなアイデンティティの根拠ということになる。
また、痛切に胸を引き裂かれるような思いがしたのは、誘拐犯である希和子(永作博美)が逮捕された夜に、警察官に向かって「その子はまだ、何も食べてないんです」と切実に訴えるシーンだった。
かつて息子が幼かった頃に、僕も子連れ狼のように、フリーランスの職場へ彼を連れて行く日常を過ごしており、別室にいる様子を見に行くと、さっき朝ごはんを食べたばかりなのに、お弁当を広げていた姿が目に焼きついている。
きっと、1人でいることが寂しかったのだろうと思う。妻の作ってくれたお弁当を広げて、心をあたためようとしていたのだと思うと、名づけようのない感情が今でも押し寄せてくることになる。
たぶんそれは、愛と呼ばれるものかもしれない。けれど、僕の身体感覚は愛と呼ぶことを拒んでいる。愛によって人は動くのではなく、突き動かされた結果を愛と呼んでいるに過ぎない。またそれは、もしかすると愛ではないかもしれない。
そして、タイトルの『 八日目の蝉』とは、七日で寿命の尽きるオスの蝉に対して、メスの蝉は八日目まで生きて産卵することを直接的には意味しながらも、そのことをもって男女の違いを云々するのは、あまりにも人間について知らなさすぎるように思う。
深く暗喩として伝えるイメージは、その1日の延長に築かれる、生の受け渡しの不確かさや切実さのほうにこそある。