本作が『晩春』の女親バージョンであることは見ての通りだが、同時に『彼岸花』との類似にも気づかされる。それは俳優とセットの使い回しだけでなく、佐分利信・中村伸郎・北竜二の3人がトリオを形成しているためである。
それがハッキリと分かるのは割と序盤、3人で呑みながら下品な会話を楽しむシーンの反復である(同じ女優の女将をからかっている)。『彼岸花』ではトリオの会話はここまでとなるが、本作ではここから司葉子を結婚させるというゲームを戯れに始め、物語が動き出す。
■孤独の表現:『晩秋』と『秋日和』
『晩秋』との対比でいえば、娘を嫁に出した父親が孤独を噛み締めるシーンが情緒たっぷりに撮影されていたのに対し、今作の母親の感情は非常に簡潔に示されている。もちろん『晩秋』の演出にしても同時代の映画に照らせば全くオーバーではない。しかし、このリンゴの皮をむくショットは、それまでの抑制から感情が解放されており、強く印象に残る。
対する『秋日和』の母親の孤独を表すラストの数ショットは、抑制の極致と言ってよい。原節子はただ暗い部屋で虚空を見つめているだけであり、これに続くラストショットはアパートの無人の廊下である。この廊下は、これまでと同じアングルで撮られているが、それゆえに人物の不在が際立つ。簡潔だが、決して冷淡でない。
■親子の一体性と衣装の工夫
冒頭のシーンで喪服に身を包み恭しくお辞儀をする2人は、完全に小津的なシンクロニシティを見せている。この2人の一体性の強調は、その後世代差を指し示す小津的記号である和装と洋装に分かれてからも続く。小津は和装と洋装で世代差を示しつつも、それを補うような仕方でカラーリング利用し、多くの場面で同系色の衣装を身につけさせることで両者の親近感を表している。
■小津的なシスターフッド
映画のラストでは、娘の代わりに彼女の同僚である岡田茉莉子が原の部屋を訪れる。このとき我々は、やはり「小津的なシスターフッド」と呼んでもよさそうな光景を目の当たりにする。なぜなら、これには幾度か見覚えがあるからだ。例えば、『東京物語』の末娘とその義理の姉の間に芽生えていた美しい友情がそれである。
本作で最初に同僚が結婚=寿退社したとき、屋上で見送ろうとした女たちは、「電車から手を振る」と約束されていたにもかかわらず無視されてしまう。ガッカリして岡田は「結婚までのつなぎに過ぎないなら女の友情なんてつまらない」とか何とかぼやくが、このとき女同士の友情が本作のサブテーマとして浮上する。しかし、司と岡田の場合はどうなったか、その答えを小津は見せてくれない。
■時代の移り行き
ところで母親役の原節子は、『晩秋』では娘役を演じていた。同じ俳優を娘役と親役の両方で起用することは、田中絹代でも行われている。ある映画で嫁に行く女性が、10年以上後の映画で中年の母親を演じているのを見ると、あたかも両作品は世界を共有していて時代だけが変化したかのように感じられる。『秋日和』を観ていると、これは勝手知ったる俳優を繰り返し起用することで結果的にそうなったというより、やはり互いの作品をリンクさせたのではないかとも思えてくる。
というのは、本作の終盤、旅行シーンで修学旅行中の女学生たちを登場させていたからだ。この女学生たちは『晩春』の京都旅行のときも居たが、わざわざ彼女たちの集合写真の撮影シーンまであり、はるかに目立った存在である。そして旅館のバルコニーに女学生がいると思ったら、カメラがズームアウトしてその手前の宿の室内にいる主人公親子が現れるという、意表を突くようなショットが登場する。この意味深長なショットにおいて、女学生たちは次に来る世代として、あえて同じ空間に存在させられているように思う。
親子に戦時中の思い出話をさせることで、小津はこの女学生たちが戦後生まれであることを示唆する。このようにして、小津は複数の自作品を通じて時代の移り行きを示そうとしているのではないか(定点観測さながらに)。そしてそれゆえに、娘役を演じた女優を後年になって母役として出演させたのではないだろうか。もし小津が長生きしていたら、あの女学生が20代になった女性が主役を演じることもあっただろう。