このレビューはネタバレを含みます
冒頭の8分30秒、何かを象徴しているであろういくつかのシーンが続く。中でも、大きな惑星に衝突して飲み込まれる地球。これがこの映画の大前提となる設定を説明している。
第1部 ジャスティン。
題名である「メランコリア」は太陽を挟んで地球の反対側にあった惑星の名前である。この第1部の設定は、このメランコリアが発見され地球に衝突する可能性が取り沙汰されている最中であると考えられる。そして、それは、人によってその可能性の捉え方にばらつきがある段階だ。但し、第1部では、メランコリアが何で、それが地球に何をもたらす可能性があるのかは説明されない。つまり、我々鑑賞者は唯々淡々と進行する披露宴のシーンを見せられる。全編を見終わった後、振り返ってみると、結婚するジャスティンとマイケル、披露宴を取計らったクレアとジョン、その披露宴に列席する人々は、メランコリアが地球に衝突する可能性は低いと思っていたと考えられる。なぜなら、もしそうでないなら、まず、誰も列席者の貴重な時間を奪うことになる結婚披露宴を開こうと思わないし、また、招待されても出席する気にならないだろう。ましてや、新郎新婦が2時間も遅れて会場に現れるに至っては、多くの列席者の激昂を招いたはずだ。この披露宴に疑問を呈していたのはジャスティンの母ギャビーだけ。ただ、そのギャビーの疑問もメランコリアが原因ではなく、生来の斜に構えた性格からのように思える。しかし、よく考えてみると、そのように仮定したとしても、披露宴に2時間遅れてやって来た新郎新婦に非難がましいことを言ったのがクレアとジョンだけだったのは不自然だ。そこで、こう考えてみた。この披露宴の参加者たちは、メランコリアが地球に災厄をもたらさないことを信じたい人たちなのだろう。だから、自分たちの時間はまだまだたっぷり残されていることも信じたいし、だからこそ、披露宴にも出席し、2時間待たされても敢えて平気な顔をしているのだ。そうして、自分の中に地球がメランコリアと衝突して無くなってしまうことの想像が侵入することを防いでいたのではないか。
しかし、ジャスティンは徐々に平静ではいられなくなり、披露宴への出席者、クレアとジョン、そして夫マイケルまでもを蔑ろにし、常軌を逸していく。つまり、地球が壊れて無くなるという考えに飲み込まれ、廃人のようになってしまう。
第2部 クレア
鑑賞者は2部になってようやく、メランコリアという惑星が地球と衝突するかもしれないという設定を明確に知ることになる。クレアは徐々に地球の最後に対する恐れと戦きを募らせ平静さを失っていく。それと反対に、ジャスティンは、覚悟が決まり、運命なのか摂理なのかに身を委ねるようにして立ち直り、平静を取り戻していく。クレアに大丈夫だと言っていたジョンは自殺し、クレアもジャスティンに地球が壊れる前に、息子のレオと三人で自殺することを提案する。しかし、ジャスティンはそれを止める。
地球の最後は、一人の人の死と全く異なる意味を持つ。一人の死は、その彼・彼女が死んでも何かを残せるし、その後生きている人の記憶に残る事も出来るし、また、それらのために死の瞬間まで生きる意味を見いだせる。しかし、地球が無くなるとすればどうだろう。最後の時まで生ききるために、私が思いつく方法は、不滅の魂を信じることくらいしか無い。ジャスティンの魔法のシェルターはその具現化ではなかっただろうか。