このレビューはネタバレを含みます
この映画を観た最初の印象は、黒澤明の「椿三十郎」そのままじゃないのか、というものだった。 そして、それなら、森田芳光はなぜこの映画を作ったのか、という疑問をもった。そこで、 場面を区切りながら、二つの映画を見比べてみた。すると、最初の印象とは違い、異なっているところは多かった。脚本が同じなのでストーリーは同じ、台詞もほぼ同じなのだが、それを喋らせる気持ちが違い、演技での表現が違う。そんな場面がいくつもあった。特筆すべき場面がいくつがある。
一つは、序盤の大立ち回りのあと。森田の三十郎はそれを行う自分を恥じながら飯代の金をせびるが、黒澤の三十郎はその素振りは一切なくズカっと要求する。
二つ目は殺陣。森田の三十郎は技巧的、黒澤のはスピードと力。特に菊井邸での立ち回りは、森田の三十郎は戦意があり斬り込んでくる敵との戦いだが、黒澤のは怖じけて逃げ惑う敵を片っ端から叩き斬っていく。虐殺、もしくは、獲物を襲う野獣のようだ。立ち回りのあと、三十郎はこの事態を引き起した四人の若侍を平手で打つが、森田の三十郎には己がしてしまった無駄な殺生への強い悔いが現れているが、黒澤のは興奮が冷めたような表情で自分の獣性を呼び覚ました彼らを戒めたように見えた。
三つ目は、最後の決闘のあと。森田の三十郎は、死んだ室戸半兵衛の刀の血を拭い丁寧に鞘に納めてやる。黒澤の三十郎は死んで大量に血を流している半兵衛を顧みない。立ち会った若侍たちはその無惨な亡骸に慄いている。
四つ目。三十郎は「抜身の刀のようによく切れる。でも、良い刀は鞘に入っているもの」と言われる。三船敏郎はそう言われる人物に対してはまり役だが、織田裕二のキャラクターはこれとはかなり離れているように感じる。
さて、では、なぜ、私がこの二つの映画をそっくりそのままと感じたのか。その一番大きな要因は、織田裕二の喋り方だ。特に、語尾のイントネーションと切り方が三船敏郎にそっくりなのだ。明確に三船によせている。森田は、敢えて、これによって観るものに三船を思い出させようとしている。つまり、敢えて、黒澤の映画「椿三十郎」を思い出させようとしている。
決闘のあとに、三十郎は、不正を働く菊井に与してまで自らの利を求めた室戸半兵衛に自分はそっくりだという。
この自戒は、森田芳光の三十郎では、彼には根底に武士道を重んじる心が、一つ間違えば、自分も半兵衛のように自分の才と腕を使って彼のようになったかもしれない。才と腕をむき出しにして生きていく先には、そのような道が待っているかもしれない、ということか。
一方、黒澤明の三十郎は奔放に振る舞う生き物であり、賢く、閃きもあり、加えて凶暴な獣性を秘めている。三十郎はそれを押し殺し素浪人として生きているが、半兵衛はその賢さ、閃き、強さでのし上がろうとしていた。その発散のさせ方の違いだけ、ということか。
このように、私にとって、森田芳光の「椿三十郎」は、それとの比較により、より深く黒澤明の「椿三十郎」を理解させてくれる触媒のような存在となった。そして、上に記した考察から、森田芳光はその意図を持っていたのではないかと想像する。