自由の女神像の用い方が、1968年に公開されたこの映画以降、様々な演出の元ネタのように感じられる点に(実際にそうであるかは関係なく)、素晴らしさのすべてがあると言ってしまうと、たぶん言い過ぎになる。けれど、言い過ぎたいほどに今でも素晴らしく思う。
前年の1967年には、『俺たちに明日はない』(アーサー・ペン監督)や『卒業』(マイク・ニコルズ監督)といった作品が公開されており、アメリカン・ニューシネマという自己批判が大きな潮流となろうとしていた。
直接的ではないにせよ、そうした潮の流れに乗るかのように、この映画のコペルニクス的転回も描かれているように感じながら、そのように1つ1つを見届けながらも、いつでもあのラストをずっと待ち構えている自分がいることを発見する。
それはどこか『ベン・ハー』(ウィリアム・ワイラー監督, 1959年)に描かれた、その人の姿のように。その人の登場以前と登場以降とで、BCとADという区分が現れたように。このことの前に、お猿さんたちなど、どうでも良いと言えばどうでも良い。
この気分は、いったい何なのだろう?