終盤の親子旅行における壺や独り林檎の皮を剥く父親のショットなどで有名な作品。
今の言葉でいえば共依存関係にある父娘が半ば強引に離れる話。娘は、今日からみると度が過ぎたファザコンである。とくに父親の(偽の)再婚話への反応は女性版エディプスそのもので、感情表現の強さにちょっとビックリした。
特に映画のちょうど半分あたりの能のシークエンス。最前列で父親と並んで観劇していた紀子は、父親が挨拶したので舞台の左側の席に再婚相手がいることに気づく。このとき紀子はゆっくりとした動作で、父親と再婚相手を順番ににらめつける(2往復も)。しかし両者とも能に夢中で気づかない。原節子が見せる恨めしさ全開の表情は、その後も登場するが、実に情念がこもっている。能の観劇中というシチュもマッチしている。
■世代差と和/洋対比
お話は、世代差を和洋の対比として示しながら展開していく。一方には茶道教室や能の観劇という如何にも和風の要素があり、他方にはクラシック演奏会、紅茶にパン、ショートケーキといった洋風の要素があり、これらは交替で現れる。
「洋」を代表する主人公の友人は離婚経験者で、格好や化粧も都会風だ。彼女が家に訪れた際、父親は気を利かせて紅茶とパンを持ってくるのだが、砂糖を忘れてしまう。これなどは世代間ギャップを分かりやすく例示した箇所である。
だが、両者の対比は何よりも「床と椅子」が雄弁に物語る。カメラは、椅子に座るショットではやや高めに置かれる。小津の特徴的なローアングルがあまねく用いられているだけに、和洋の対比がカメラの高低差としてそれとなく刷り込まれる。
自宅における父親の定位置は1階の座敷であり、娘の定位置は2階洋室の奥の椅子である。多くのショットで同じ右下に位置されることで、相似と対比の効果が生まれている。
■乗り物のシーン:自転車と電車
さらに面白いのは、前半にだけ見られる珍しい編集・演出である。
父親の助手とのツーリングでそれは見られる。直接の演出意図としては観客をミスリードすることにあるのだが、紀子と助手の仲良い様子を描くのに、典型的なカットバックを使用している。つまり小津がよくやる真正面ではなく、互いの方を向いた紀子と助手のアップが交互に映される。しかも、このシーンはおそらく本作で唯一パンや移動撮影が使用され、ツーリングの爽快感が強調されている。
他の映画なら何でもない撮り方だが、本作では例外的であるだけに、このシーンは映画全体の中で妙に浮いている感じがする。また、本作の中では比較的リズミカルに編集されている。
小津は、ここだけ意図的にアメリカ(というか普通の映画)風の演出を持ち込んだように思う。つまり美術や小道具や衣装(自転車だから紀子はパンツルックだ)だけでなく、演出によって和洋の対比を行っているのではないか。洋というか、何となくモダン、ハイカラ、若い、といった雰囲気である。
世代差の対比表現にはなっていないものの、他と異なる演出が見られるシーンがもうひとつある。やはり序盤で、紀子と父親が電車に乗る場面だ。ここも同じく乗り物の場面であり、自転車のとき同様に、分かりやすいテンポでカットが刻まれ、またスピード感を強調するショットがある。
車内のショット、外から電車を捉えたショットが交替し、ショットが車内に戻る度に時間が経過している(最初は2人とも立っている。次は父親が座る。最後は2人とも座っている)。このような小気味よい時間省略の仕方は、本作の中でここだけである。また、動きの乏しい本作において、屋外からのショットは電車のスピードを感じさせる。後方車両の窓からカメラを出して、走る車体を間近でとらえるショットまで挟まれているほどだ。ここも、やはり全体の中で浮いた感じがある。
■屋内のシーン
これら2つのリズミカルに編集されたシークエンスと対照的に、屋内とくに紀子の自宅では観客を「焦らす」ような場面が多い。つまり室内パートの会話では、往々にして本題や結論が先送りにされていく。基本をなすのは、無意味な会話である(勿論テーマ上は意味ある内容も多いのだが)。例えば父親とその妹が畳に座りながら、結婚式で花嫁が刺身を食べるの食べないのといったやりとりを2、3往復くらい行うのが、小津映画によく見られる会話シーンである。紀子の結婚に話題が及ぶのはその後となる。
焦らす演出は、ツーリング後の紀子と父親の場面で見られる。父親は叔母にせっつかれて、助手と結婚する気はないかと紀子に聞く気でいたところに、助手とツーリングしてきたと言われて、そわそわしだす。
このようなシーンでは、登場人物が家の中をグルグルと徘徊する。本題に入る前に親子の移動と雑談が続き、そうして結論が先送りになる。とりわけ紀子があたかも逃げるかのようにフレームから出て行き、父親も一瞬追いかけそうになるのが面白い。昔の喜劇映画監督としての小津が顔を出している。フレーム内フレームも駆使されている(例:父親が部屋着に替えるとき紀子は左の襖の裏にいて観客から見えない)。最後にやっと2人は食事を始めるが、紀子は観客に背中を向けてやはり顔は見えず、父親は紀子に完全に隠されている。
このシーンの目的が、「紀子と助手はどこまで進んだ関係なのか?」という関心をもつ観客を焦らすことにあるのは明白である。
あるいは終盤でも、2階で叔母から結婚するのかどうかを問い詰められた紀子は、逃げるように部屋と廊下を巡る。ところで、そもそもこうした徘徊が可能なのは日本家屋だからである。つまり、部屋の一辺すべてが襖によって廊下とつながっているから、部屋→廊下→部屋とグルグル動くことができるのだ。部屋と廊下の出入り口が扉ひとつしかない洋風住宅では、このように「回る」移動ができない。
本題や結論の先送りと、日本家屋の住宅構造とは、小津の演出において密接に結びついているわけだ。