それぞれに問題を抱える家族6人が、1台のワゴン車に乗り込むこのロードムービーは、最終的に心温まる絆へと収斂していくいっぽう、その骨格を支えているのは、身体性として現れる他者性にこそ自己は開かれていくという、深いテーマだったように思う。
この作品を観たあとに、夫婦で監督をしていることを知り関心を持った。監督処女作となる本作と『ルビー・スパークス』(2012年)は、いずれもコメディタッチの裏側に、身体性として現れる他者性と自己との関係を織り込んだ、哲学的な内容を持つ作品のように感じる。
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美少女コンテストに出場する、妹オリーヴ(アビゲイル・ブレスリン)の視点でフーヴァー家を点描してみると、どこか山師的に自己啓発関係で一旗挙げようとする父リチャード(グレッグ・キニア)、ゲイとしての失恋から自殺未遂した母方の叔父フランク(スティーヴ・カレル)、パイロットになるまで誰とも口をきこうとしない兄ドウェーン(ポール・ダノ)、麻薬常用者の父方の祖父エドウィン(アラン・アーキン)、そんな家族に悩む母シェリル(トニ・コレット)となる。
そして妹オリーヴもまた、特技もなく容姿も褒められる要素がないにも関わらず、美少女コンテスト「リトル・ミス・サンシャイン」に出場する夢を持っている。そうしたオリーヴの無謀な挑戦に、家族全員が巻き込まれていくかたちで、経済的に余裕がないなか、1287キロという長旅に出ることになる。
そのようにフーヴァー家は、それぞれに抱える挫折や、葛藤や、すれ違いや、和解を通過していくことになる。ラストでは、無謀とも思えた美少女コンテストにオリーヴは出場し、またそれは実際に無謀だったものの、有りのままでいることの素晴らしさを一家が共有して話は終わる。
そうした意味では、多様性を肯定していくハートフルコメディになっている。けれど、そうした過程に描かれるのは、身体として現れる他者と、どのようにして向き合っていくかというテーマだったように思う。
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哲学者のセーレン・キルケゴール(1813-1855年)は、その主著『死に至る病』のなかでこう述べている。
人間は精神である。しかし、精神とは何であるか?精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか?自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。
ここでキルケゴールが言おうとしていることの要点は、自己(自分が自分であること)とは、様々な関係のなかに編み込まれた運動体(精神)のようなものであり、物質のように固定的なものではないということになる。
フーヴァー家の1人1人もまた、そうした1人1人が他者として関係しあうことで、初めて1人1人がその人であるという原理に、旅の過程で深く触れていくことになった。また、ここでいう他者とは、自分ではない誰かという意味もあれば、場合によっては自分自身の身体も意味する。
ゲイである叔父フランク、色弱であることに気づいた兄ドウェーン、秀でた容姿を持たない妹オリーヴについては、自身のそうした身体性が、他者性として現れるなかにこそ、自己を開いていくという経路を辿っている。
ジョナサン・デイトン&ヴァレリー・ファリスによる、『リトル・ミス・サンシャイン』と『ルビー・スパークス』は、いずれも「身体性として現れる他者性にこそ自己は開かれていく」ことを描いているように感じられる。
また、こうした深いテーマをコメディのうちに表現しうる力量について、2人の夫婦関係によるものだろうかと関心を持つことにもなった。夫婦関係を隔てながらも、結びつけている要素は「性」になり、お互いの性もまた、自己の運動性を促す身体的な他者として現れるところがある。