【ヤマギシ会を描いているけど問題が多い映画】
監督は撮影当時二十歳の女性で、兄二人姉一人がいる末っ子だが、5歳の時にヤマギシ会幼稚園に1年間預けられ、そのせいで親から捨てられたという感覚にとりつかれるようになった。また小学生時代に長兄から性的虐待を受けたこともトラウマになったという。
この映画は二十歳になった彼女が、親や兄にその過去を問いつめたり、かつてヤマギシ会幼稚園で一緒に過ごした同級生を探して現在の心境を問うたりして、自分を確認していく過程を追っている。というか、この映画自体がその確認作業なのである。
生々しい映画なのではあるけれど、私には終始疑問がつきまとった。監督は泣きながら過去の親や兄の仕打ち(?)を追及して行くけれど、どこか大げさというか、映画的すぎる気がした。
監督と同期でヤマギシ会幼稚園に1年間預けられていた女性たちが、この映画には何人か出てくる。インタビューで彼女たちがかつての経験を語る様子は興味深いが、少なくとも監督のようなトラウマを抱えている人は見あたらない。無論、15年のうちに転居などで住所不明になっている同級生も多く、この映画に登場する同級生はごく一部に過ぎないが、少なくとも監督のトラウマが普遍的だとは言えないだろう。
同様に、幼少期に兄から性的虐待を受けた女性もそれなりにいるだろうが、その人たちがみな監督のようになっているかというと、恐らくそうではないだろう。この映画で監督の姉が語るように、誰でもそれなりの不幸や傷を負いながら、しかしそれを騒ぎ立てることなく生きているのだから。
私が考えたのは、この映画で監督は、ヤマギシ会幼稚園に預けられたり長兄から性的虐待を受けたりしたせいで自分はこうなったと言っているけれど、仮にそういう経験がなくとも彼女はたいして現在と変わらなかったのではないか、そしてその場合、監督は原因を他の何かに求めていたのではないか、ということであった。私はこの手の心理学主義には胡散臭いものを感じる人間だからである。現在の自分を過去の出来事で100%説明できると考えるのは、浅薄なイデオロギーだと私は思う。
なお、この映画に出てくるヤマギシ会は、映画でも説明がなされているが、監督が預けられた1990年頃よりはかなり以前から活動しており、設立は1953年である。私は大学生だった1970年代前半にその存在を知ったのだが、当時からちょっとカルトっぽい集団と認識されていた。その団体が運営する幼稚園に1年間子供を預ける親というのは、はっきり言って不勉強だと思う。ただ、「自然の中で子供を育てる」というキャッチフレーズがエコロジー・ブームに乗ったために、カルト色が見えにくくなっていたのであろう。今でもこの手の宣伝文句に騙される人はいるかも知れない。人間、勉強が肝心である。