青乃雲

処女の泉の青乃雲のレビュー・感想・評価

処女の泉(1960年製作の映画)
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いわゆる「近代的自我」と呼ばれるものが、どのように引き裂かれることになるのかを、処女という一種のicon(イコン:象徴的な像)が、汚され殺されることを契機(きっかけ)に、その父親が懊悩(おうのう)する姿を通して濃密に描写した作品。

しかし、すぐに直感されることとして、この父親の懊悩(おうのう)は、娘というかけがえのない他者への愛などではなく、どこまでいっても自己愛でしかないことがよく描かれている。また、それこそが、近代の近代たる所以(ゆえん)でもあるのだろうと思う。

ミゲル・デ・セルバンテス(1547 - 1616年)が『ドン・キホーテ』に描いた、アロンソ・キハーノ(ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ)の幻視的な冒険にせよ、ウィリアム・シェイクスピア(1564 - 1616年)が『ハムレット』で造形した、王子ハムレットの憂悶(ゆうもん)にせよ、いずれも、この映画に描かれる父親(マックス・フォン・シドー)の懊悩へと、真っ直ぐに伸びている。

つまり、この父親に投影されるベルイマンの宿命的なモチーフとは、実はキリスト教における神や、その沈黙に本質があるのではなく、近代という枠組みのなかに生成した、自我の構造それ自身にこそあるように思う。

そして、ベルイマンの最小値とは、多かれ少なかれ、西洋的な意味や価値のなかで語られる語りの核心がどこにあるのかを、1点透視、2点透視、3点透視などに表される、線遠近法(Linear Perspective)の消失点のように結んでみせたことにあるのではないか。

また、だからこそ、近代的自我をめぐる遠近法的なアプローチが、空気遠近法や、色彩遠近法などのように、他にも存在することを示し得たようにも思う。

★スウェーデン
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