このレビューはネタバレを含みます
皮肉に満ちた神の奇跡。
イングマール・ベルイマンの作品は、これで5作目となります。
本作は宗教色が強く、前提知識を必要とする敷居の高い作品でした。
それ故、本レビューを書くにあたって再鑑賞を行う際、付け焼き刃ではありますが、キリスト教、並びに北欧神話周りの知識を頭に入れて臨みました。
ただし、あくまで付け焼き刃、簡単にさらっただけであるため、誤って認識している可能性もあります。その場合、有識者の方が優しく指摘して頂ければ幸いです。
まず表層的な部分ですが、登場人物たちが森の中で木々をかき分けながら進むカットを始めとした撮影、要所要所で挿し込まれる劇伴が素晴らしく、それだけでも価値のある1本だと感じました。
さて、冒頭にもあるように、本作は宗教色、ひいてはキリスト教的な描写が多かったです。しかし、登場人物たちの抱く神への期待は、決してキリスト教だけに限定されるものではありませんでした。
召使いのインゲリ(グンネル・リンドブロム)は北欧神話のオーディンに祈りを捧げ、テーレ(マックス・フォン・シドー)と、その妻であるメレータ(ビルギッタ・ヴァルベルイ)は磔にされているキリスト像に祈りを捧げます。
ここからわかるのは、本作にキリスト教、そして北欧神話、つまるところ北欧の土着的な信仰と、2つの信仰ベクトルがあることです。
ただ、ベルイマン作品における神は沈黙を貫き、神の対象はキリスト教となります。
テーレは北欧神話に登場する雷神トールに由来する名前と考えられ、キリスト教側にいると思いきや、北欧信仰の文脈にも立っています。
終盤、テーレはキリスト教の規範を破り、北欧信仰(バイキング等にも通ずる野蛮性)に接近します。
そうして、解釈が分かれる「泉」のラストに向かう訳ですが、私はキリスト教の文脈で奇跡が起こったのではなく、北欧信仰、即ちオーディンが願いを聞き入れたかたちで幕を閉じたと考えています。
それは神の沈黙、キリスト教の否定につながり、ベルイマン作品の精神性を守るためです。
ベルイマンの父は位の高い牧師でしたが、家庭では酷いDVが行われており、ベルイマンは宗教への敬虔さを不信に思っていました。
終盤のテーレの行動を、キリストが許すとは到底思えず、表面的には喜ばしい奇跡に見えるものが、実は全く逆の意味であったと考える方が作品としては面白いように感じました。
総じて、皮肉的な奇跡を突き付けられる作品でした!