晴れない空の降らない雨

残菊物語の晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

残菊物語(1939年製作の映画)
-
 溝口がそのワンシーン・ワンショット演出を確立した作品といわれる。
 確かに本作の多くのショットが距離を伴っての長回しで撮られており、ストーリーの典型的メロドラマ具合に比して異化的でさえある。「感情移入」のためにメロドラマはクローズアップを要請する。溝口はほとんどのシーンでその要請を無視する。といっても、素朴な鑑賞者が違和感を覚えるほどではなく、その塩梅がまた見事である。
 
 意図的に不自然な箇所もある。花火で家族も女中も出払っている最中に、家にとどまった菊之助とお徳が話し込む場面である。最初2人は庭で会話しているのだが、お徳が立ち上がって赤子を布団に寝かしつけに屋内に行く、それから開いた襖の奥へと進む、少しして菊之助が追う……このシーン自体は重要でないが、その執拗なショットの持続が妙に印象に残る。
 映画の終盤近くで理由が分かる。菊之助が和解したこの実家に帰ったとき、このショットと次のショットが反復される。赤ん坊は幼児に成長しており(無論菊之助のことは覚えてない)、炊事場には多くの人がいて、しかしお徳だけがいない。ここで観客に思い出してもらうために、あえて印象づけるような撮り方をしたのだろう、と気づくのだ。
 
 ところでこの炊事場で菊之助がお徳に感謝を述べるとき、お徳の顔がほとんど影で隠れている。菊之助は対照的にライトを当てられている。その後もよくよく見てみると、お徳の顔をハッキリと映さないショットが多い。そもそもロングショットが多いから当然ではあるが、明らかに狙っている箇所もある。上記の場面の直後、お徳が解雇されるときも我々が見るのはお徳の後ろ姿、次いで少し後ろから見た横顔であり、どちらのショットも菊之助の義母がメインの人物である。
 この構図が映画では繰り返される。カメラに向かって真正面に座るのはお徳の会話相手であり、お徳はその右手前にカメラに対して90度の角度で座る。
 終盤、菊之助が従兄弟や叔父の前で女形を成功させたあと、芝居小屋から出てきたお徳が泣き崩れるショットではお徳の全身が影になってしまう。さらに、菊之助のために身を引いたお徳が懐かしき大阪の住まいに戻ったあとに座り込むときなど、彼女は完全なシルエットと化す。
 
 「距離を置いての長回し」「表情を隠す」という選択は本来ならば悲恋物というジャンルに似つかわしくない。だが、「どこまでも自己主張しないヒロイン」という主題に対して、実に適切なアプローチだったように思われる。