このレビューはネタバレを含みます
「GANTZ」2部作の第1部。
私がこの第1部で囚われていたのは、一度死んだものが再生することがあり得るとして、それは、その人にとって望ましいことなのか、ということだ。仏教の輪廻転生は、死んでも何度も生まれ変われるから大丈夫、というような考え方ではない。生はそれ自体が四苦八苦の行であり、その中で解脱できれば、涅槃にいたり、苦行である輪廻転生を断ち切ることが出来る。つまり、生は苦行であり、生き続けることは、あるいは、生を繰り返すことは、人の安寧ではないのだ。その昔、下層の庶民は抑圧され虐げられて、実感として生きていくことは苦しむことに等しかったかも知れない。そういう人々には先述の仏教の世界観は納得だろう。しかし、開祖の釈迦は王族の生まれなので、釈迦の思想はそのように生活に苦しんだ末に生まれたものではない。釈迦が注目したのは諸々の苦の元になる欲、即ち煩悩であり、煩悩は下層の庶民にも王族にも存在する。つまり、その昔の人々のように、貧しい生活に苦しんでいない現代人の生も苦行だということだ。この映画の登場人物で、再生したことを激しく悔いる者はいなかった。しかし、繰り返される命がけの戦いを覚悟しなければならない悲壮感があった。彼らは生の苦行を繰り返す者だ。それでも彼らは死なないことを望んでいる。こんな繰り返しの中でも、人は再生し続けることを望むのだろうか。
物語の細部では、西の新参の戦士への不誠実な態度と、加藤の誠実さが対照が印象的だった。この両者とも、誰でもが持っていて、表に出る分量の差でしかない意地悪と、利他と偽善のグラデーションのどこかにある心を体現している。
もう一つ、玄野計が再生しスーツの機能を理解したときの全能感。これは危険だと思った。なぜなら、この世に全能はあり得ない。そのあり得ない全能を確信してしまった者は大きな間違いをしでかすに違いないから。
第1部はこんな引っかかりを私の頭に残して、第2部の「GANTZ PERFECT ANSWER」へと私を誘った。