このレビューはネタバレを含みます
ヒッチコックはサスペンス映画について、次のように語っていたという。
テーブルの下に爆弾が仕掛けられていて、登場人物も、その映画を観る観客もそれを知らない。それが爆発する。これは、ショックによるプライズで一瞬のもの。同じシチュエーションで、登場人物はそれを知らないが、観客はそれを知らされている。この状態がサスペンスであると。
「サイコ」における爆弾は何かというと、ノーマン・ベイツの人格が二つに分裂していて、それを起因として人殺しを行う者である、ということだ。しかし、ヒッチコックはこのことの完全な説明はラストシーンまで行わない。徐々に明かしていく手法だ。
最初の爆弾の爆発はベイツモーテルの1号室での殺人。ここに爆弾があるとの明示はない。しかし、臭わせている。モーテルから離れたベイツの屋敷から聞えるノーマンとその母との口論。それから、ノーマンとマリオンとの会話。話題がノーマンの母に及び彼のボルテージが上がるにつれ、彼を撮るアングルが変る。始めは、マリオンがカメラのやや右を見ているのに対して、ノーマンはやや左を向いている。マリオンのアングルは変らないが、彼は次に左への角度を強め、代わりにフクロウの剥製がカメラ目線になっている。更に、角度を深くし、どこを見ているのか分からなくすることで、彼が普通ではないことを感じ取ることが出来る。その後、シルエットのノーマンの母がバスルームでマリオンを刺し殺す。彼がマリオンの死体の処理を行うシーンを丁寧に描くことで、彼と彼の母が別人格であることを観る者に植え付けている。
次の爆弾はベイツ邸の2階で私立探偵のアーボガストが襲われる殺人。ここでは、ノーマンの母が殺人を犯すほどに常軌を逸していることが前提なので、彼女がいるベイツ邸に入ってしまった彼が殺されることは予測可能になっている。天井からのアングルでノーマンの母が部屋から飛び出しアーボガストを刺した。殺人の後、同じアングルで母を抱いて地下室に運ぶシーンが観せられ、この二人が別々に存在しているという思い込みを強化する。
しかし、この後、後半の早い内に、ノーマンの母は死んでいることが明かされる。爆発を引き起していると思っていた者が実はそうではなかった。ここでこの映画を観る者は一度裏切られる。ただ、この裏切りは、ノーマンの怪しさと、実体が明確でない彼の観る観せられていた観る者にとってはある程度織り込み済みだ。織り込み済みのことがその通りであったことが、観るものをくすぐる。
最後の爆弾は不発に終る。マリオンの妹のライラはベイツ邸でノーマンの母の実体に遭遇する。そして、殺人を犯していた実体とも遭遇する。これも、ノーマンの母が死んでいることが明かされた時点で鑑賞者にとって予想されていて、そのことが裏打ちされることはくすぐったい。
全ての謎解きは、エピローグ的な警察の捜査官の話で明かされる。興ざめにもなりかねない説明的はシーンの後、母の人格になったノーマン・ベイツの独白で終り怖さの余韻を残す。
ヒッチコックはこのように、
登場人物=知らない者、鑑賞者=知っている者、というサスペンスの図式を色々試し変化させていったようだ。「サイコ」の図式は、
登場人物=知らない者、鑑賞者=知っているかもしれない者、というものだ。このやり方は、明かされ切らない謎の解明を求める鑑賞者の探究心と想像力を信じた上で、それを強く刺激することをそのコアとする。
ヒッチコックは1925年に映画監督としてデビューし、1976年に最後の長編映画を作っている。「サイコ」は1960年公開なので、そのキャリアの終盤の作品だ。彼の最初のカラー作品は1948年なので、この映画は敢えて選んだモノクロだ。その理由は、ショックをさけ、サスペンスの王道を目指し、そして、鑑賞者の探求と想像を信頼していたからだろう。