この映画は、ストーリーはシェークスピアの「マクベス」を下敷きにし、メイクや演出は能を取入れている。物語は、謡曲をBGMに蜘蛛巣城趾の碑を映し、それが霧に隠れ、晴れると城が現れるというシーンから始まり、城が霧に隠れ、晴れると城趾の碑が現れるシーンで終る。それらに挟まれた物語の世界は、この城を巡る大小の煩悩に動かされた者たちの亡霊が、迷い抜け出せない永遠の異界の様に思えた。この異界に渦巻いているのは、欲と疑心暗鬼で、それが事態を救いようのないところに運んでしまう。この物語自体、能的であるが、特に三船敏郎演ずる鷲津武時と山田五十鈴演じる浅芽の動きや表情は能の様式美を目指しているようだ。また、それは、浅茅のメイクに顕著で、夫の鷲津武時を唆すところでは、大きな欲、強烈な上昇志向の全てを裏に隠した一般的な小面、死産の後、手についた血が落とせない妄想にとりつかれた時は額に怯えの影を作り、目尻と口元はつり上がっている。「蜘蛛巣城」はこのようなリアリティではないアプローチで、芸術的な世界を完成させていると思う。