20世紀のモダニズムがどこへ向かい、その最果てがどのようなものであるかを描いた作品になるだろうか。そのため、映画の冒頭でフェルディナン(ジャン=ポール・ベルモンド)が朗読する美術評論は、そのままこの映画のことを語ったものになる。
晩年のベラスケスは
事物を明確には描かず
空気や黄昏の色で対象を描いた
背景の影や透明感
きらめく色調で感動させた
それが沈黙の交響曲の
目に見えない核だ
もはや彼の世界は
浸食し合うフォルムと
色の不思議な交感だけ
それはどんな障害にも邪魔されず
ひそかに絶え間ない進歩を続ける
結婚生活に退屈しきった男が家庭を捨て、女と逃避行するなかで犯罪がらみの暴力に巻き込まれ、やがて女にも捨てられ自爆するという、ほとんど何の意味もない筋立てはいつものゴダール風。そして「浸食し合うフォルムと色の不思議な交感だけ」さながらに、カットとカットの響きあいだけで映画を成立させる手法の、1つの極みに達しているように感じる。
こうした試みを小説の文脈で捉えるなら、たとえば19世紀的な物語を確立したチャールズ・ディケンズ(1812-1870年)に対して、20世紀にその物語を解体した『ユリシーズ』のジェイムズ・ジョイス(1882–1941年)や、『失われた時を求めて』のマルセル・プルースト(1871-1922年)という名前を挙げることができる。いずれも、登場人物の意識の流れで作品を構成している。
ゴダールのアプローチも同様のものであり、映画を構成しているのは「空気や黄昏の色」だけということになる。荒唐無稽な、性と暴力と裏切りの色彩が織りなされるなか、フェルディナンの意識の流れがそのまま映し出されている。それは、処女作となる『勝手にしやがれ』(1960年)から始まり、『気狂いピエロ』で結実したという印象がある。
また、ゴダールの鋭敏な感覚は、このアプローチの先にあるものもつかまえていたように思えてならない。「それはどんな障害にも邪魔されずひそかに絶え間ない進歩を続ける」というモノローグとは裏腹に、フェルディナンが爆死してしまうことに表れている。
また見つかった
何が
永遠が
海と溶け合う太陽が
自ら巻いた爆薬で、フェルディナンが爆死したあとに砕け散ったのは、ゴダールの自意識の果てでもあったのではないか。映画のラストで朗読される、このアルチュール・ランボー(1854-1891年)の詩が、そのことを物語っているように思えてならない。「海と溶け合う太陽」の一瞬のうちに永遠があるとするなら、永遠とは発展的に持続する何かではない。
その先にあるものは、何か?
20世紀のモダニズムはそのことに回答を持たなかった。僕はそのように理解しており、50年以上前に撮られたこの作品が、21世紀に入ってからも現代的な理由は、このことにまだ回答を出せていないからだろうとも思う。
★フランス