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ジュラシック・パークのshunsukehのレビュー・感想・評価

ジュラシック・パーク(1993年製作の映画)
4.0
何度も観た映画だが、昨日行った福井県立恐竜博物館に刺激され観直してみた。すると、今までは、パニック・アドベンチャー映画としてしか観ていなかったこの映画の何か深いところまで理解できたような気がした。
アランとエリーがパークに招かれ最初にブラキオサウルスに会うシーン。彼らは膝が震えるほど感動する。同時に私も、絶対に会えないはずだった憧れの生き物に会えた感激に共鳴して涙が出てきた。しかし、マルコムを含めた科学者たちは、理論的に、また、感覚的に遺伝子を操作して、いてはいけないものを生み出すことに危惧する。恐竜の胚を盗み出すネドリーのPCのディスプレーの横に、原子力爆弾を作り出したオッペンハイマーの写真が貼ってあったのが暗示的である。また、マルコムはパーク側が完璧を主張する繁殖の管理について、それを越えてくるのが生命であると予言する。生命に払うべき畏敬とその生命の逞しさを理解させてくれる。
アランはレックスとティムとのサバイバルを経て、子供との付き合い方を学び、好きになり、父性の気持ちを育てる。そのサバイバルで、レックスはPCに向うこと以外に生き物に対する理解を深めたようだし、ティムは姉レックスのただのオタクハッカーではない実力を認めることになった。アランはそのサバイバルの途中、子供たちの肩を抱いて休ませるときに、お守りのように持っていたベロキラプトルの爪の化石を捨て去る。彼は、これからも恐竜に対する探求をやめないだろうが、おそらくは、それまでは持っていたであろう、生きている恐竜に会いたいという気持を捨てたのだろう。
アランは、パークの島を脱出して飛ぶジェットヘリから、海上を飛ぶ鳥たちを見つめる。恐竜は滅びたが、それは鳥に進化したという。生命は、その誕生から様々な必然と偶然を重ね、それを繋いでいくことを唯一の方向性として、あるものは進化し、あるものは滅んだ。今、この地球上に存在する生命は、全てその果てに生き残ったものたちだ。そして、同時にこの世界を構成し、そのバランスを保つために必要な存在だ。もし、人間がこの滅びと進化に関係無い何かを生み出したとき、この世界のバランスは崩れるのだろう。そして、人間はその行為を行ったしまっていて、世界のバランスは既に崩れているのだろう。
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