キャメロンによる続編は、素朴に楽しむ分には前作より上だろう。しかし、ホラー映画ではなくなっている。
最もホラー映画らしい場面は、前半の巣に突入するシークエンスである。前作ではカットされた、繭状態にされて寄生された状態の犠牲者が「殺して」と哀願するといった、おぞましいシーンが見られる。何より戦闘では、死角=闇から現れる無数の群れとしてエイリアンを描き、得体の知れない捕食者への恐怖を高めている。しかし、やはりこれらはモンスター映画としての恐怖であり、ありありと示された形象がもたらす恐怖は、前作の恐怖とは真逆の性質である。
特に重要なところは、「女戦士」としてのリプリーをさらに強調するとともに、そこに「母=庇護者」という役割を追加したことだろう。また、恋愛を予感させる箇所もある。そして敵側にはマザーエイリアンを配し、「母対母」の構図に持ってきている。否定しようがない本作の視聴覚的快楽はさておき、この操作によってもホラーの質は大きく後退している。最大の問題は、卵を破壊されて怒り狂うマザーが「我々にも理解可能な存在」であることだ。つまり、キャメロンは前作と比べて「リプリーの母=女化」および「エイリアンの人間化」を行い、我々がすんなり感情移入して物語に没入できるようにしている。
また、科学への不信も和らいでいる。まずロボットが友好的存在に変更され、リプリーとの和解が描かれる。そして何より核爆発による一挙解決が図られている点に、科学テクノロジーへの信頼が取り戻されているといえよう。
『エイリアン』シリーズ全てに言えることだが、監督の作家姓を強く押し出した作品になっている。「強い女性」像の描き方もその1つだが、海兵隊のノリやメカへのフェチズムにもキャメロンを感じることができる。ダクトテープで強引に合体させた火炎放射器つきライフルが超便利。そして『アバター』で敵役である人間側のアレって元はこいつだったのか。昔観たことあったけど全部忘れていた。
それにしても、1作目終盤のシガニー・ウィーバーの半ケツはよほどの衝撃を残した模様。