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小間使の日記のkanacoのレビュー・感想・評価

小間使の日記(1963年製作の映画)
3.3
フランス文学『小間使の日記』の2回目の実写化。ジャンヌ・モローが演じる快活で魔性なメイドの視点から人間の欲望や偽善、腐敗したブルジョワ階級の様子を滑稽に映し出す。当時の社会情勢や政治をベースに物語が綴られていくので知識に乏しい私には時々「🤪💦」という状態。文学っぽさを感じるかも🧐(140文字)

****以下ネタバレあり&乱雑文****

◆あらすじ◆
右派と左派の対立が激化している19世紀のフランス。様々な雇い主の下でメイドをしてきた美しい娘セレスティーヌは、それまで中心としていたパリを出て田舎に住んでいる貴族のモンテイユ家に仕えることになった。他の使用人たちと共にセレスティーヌは住み込みで働き始めるが、夫人からはこき使われ好色な主人や老人から迫られる日々。気も強く躱し上手なセレスティーヌは言いよって来る男たちを手玉に取りながら仕事をこなしていくのだが、モンテイユ家に来てからというもの周りは奇人か過激な人間たちばかりが目に付くのだった。やがてセレスティーヌは田舎に嫌気がさしてしまいパリに戻ることを決める。しかし屋敷に出入りする中で唯一可愛がっていた少女が何者かに無残にも殺されてしまう事件が起きる。セレスティーヌはその犯人に思い当たるところがあり、田舎にひとまず留まると犯人と接触を試みるが…。

★゜。☆。゜★゜。☆。゜★゜。☆。゜★

【注意】このMARKはレア・セドゥ版『あるメイドの密かな欲望』を鑑賞した後であり比較する内容となっています。

『あるメイドの密かな欲望』を鑑賞した後、他の映像化も気になったので鑑賞。原作は、フランスの小説家・劇作家のオクターヴ・ミルボーが1900年に発表した小説『小間使の日記』。3回映画化しているという有名なフランス文学だそうで、本作である1966年のジャンヌ・モロー版『小間使の日記』は2回目の映像化にあたるそう。ちなみに、

❶ジャン・ルノワールの小間使の日記
1946年(米)ジャン・ルノワール監督×ポーレット・ゴダード
❷小間使の日記
1964年(仏×伊)ルイス・ブニュエル監督×ジャンヌ・モロー
❸あるメイドの密かな欲望
2015年(仏×白)ブノワ・ジャコ監督×レア・セドゥ

となるみたいです。如何せんクラシック映画に疎いのでレア・セドゥしか名前を知らない…💦ちなみに❷のジャンヌ・モロー版は白黒だったので❶もそうでしょうかね。

原作小説『小間使の日記』は作者オクターヴ・ミルボーがフランス社会の階級制度に対して批判的かつ辛辣な視点を持つため、若くて美しいメイドであるセレスティーヌが日常で経験したり目撃したりした「人間の欲望や偽善」が日記形式で綴られて行くスタイルらしいです。しかし映画では日記の存在は出てこないし全く言及されません。また、大まかなストーリーや登場キャラクターは本作も『あるメイドの密かな欲望』と同じだったので原作がそうなのだと思いますが、2つの映画ではキャラクターの性格、映画の雰囲気、結末は相違がある仕上がりでした。

まず〈美しいメイド〉という設定は同一なるも主人公のセレスティーヌの性格が相違します。レア・セドゥが演じているセレスティーヌは20代後半といった感じ。不機嫌で常に不満げな顔で悪態もつきますし、セクハラに対してはキッパリと牽制しますが、どちらかというと感情をポーカーフェイスに押し込めて抑圧されているタイプ。強気な姿勢なのにどこか儚さが共存します。

一方、ジャンヌ・モローが演じているセレスティーヌは30代後半といった感じ。こちらはハキハキとしていて軽妙な性格。同じように階級社会に抑圧されているのですが、レア・セドゥよりも立ち回りが強くて自分の美しさや魔性性も理解しており、それを武器にさえする強かさというか、男たちをうまく手玉にさえ取るというか…もはや立ち回りで階級を飛び越えて誰よりも優位なポジションをキープしようとする精神的なタフネス感があります🤔

セレスティーヌをこき使ってくる夫人はそんなに変わりないも、男性陣についても微妙に相違あり。レア・セドゥに付きまとう男達は「キモい」「怖い」の色が強いですが、ジャンヌ・モローに付きまとう男達は「キモい」「怖い」にプラスして「ヘ、ヘンタイだー!!😱💦」が付加されます。セレスティーヌの境遇や性格によって「下級階層の美しい女性」の生き辛さを浮き彫りにする点は同一ですが、ジャンヌ・モロー版の方がブルジョワ階級の描き方が腐敗しているだけでなく〈滑稽〉に映るようにより強調されているのかも、と思いました🤔

キャラクターだけではなく、ストーリーや演出も相違あり。レア・セドゥ版が〈ザ・フランス映画〉らしく詩的な雰囲気やビジュアル特化型、その分ストーリーやテーマの伝え方がやや“ぼんやり”しているのに対して、ジャンヌ・モロー版はレア・セドゥ版で「触りだけしかでてこず回収されていない」いくつものエピソードについて深堀されています。レア・セドゥ版はメイドの人生の「悲愴感」を一番押し出したい意図があるのか、本筋をけっこうカットしたんだなぁ~というのが分かります。というかカットどころか話が途中で終わっています。ジャンヌ・モロー版はまず登場人物の数が多いですし、みんな良くしゃべるので話のテンポも速く、何よりも社会情勢や政治、当時の人間の思考・差別主義をもっと具体的に反映していきます。

ただ…🤔

比較すると…というだけなので、それでもやっぱり(ニュアンスの違いやテーマ性は受け取れでも)物語が単純明快に描かれているわけではないのは同じ。そもそも政治や社会情勢において右派と左派の対立が激化している19世紀のフランスの知識が疎いため、出てくるワードも聞き慣れないというのも手伝って頭に「🙄❓」が浮かびがち。ジャンヌ・モロー版がより〈現実的で批判的で過激〉であることはなんとなく伝わってくるのですが…。知識人・文化人の方が本作の内容をもっと理解できるのだろうな~というところが、すごく「文学っぽい」という感じでした🤪(お手上げ~)

というわけで、そうではない私にとってはレア・セドゥ版『あるメイドの密かな欲望』もジャンヌ・モロー版『小間使の日記』も、結局は〈美しいメイド・セレスティーヌ及びそれを演じる女優の魅力の方を堪能する映画〉止まりだったかもしれません。

📚🐝「文学って学生の頃から苦手(日本文学も例外でなし)!!それでもこうなってくると1946年版『ジャン・ルノワールの小間使の日記』が気になるし、そもそも原作小説『小間使の日記』がどのような書かれ方をしているのか気になるところ…。ところが1作目は配信にないし、原作は近くの図書館にないしで詰みました~😂ざんねん!」
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