晴れない空の降らない雨

どうぶつ宝島の晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

どうぶつ宝島(1971年製作の映画)
5.0
『長靴をはいた猫』と並んで東映動画の長編アニメーションの最高傑作との呼び声が高い作品。『猫』に比べるとだいぶシリアス味が増しているが、動物を擬人化した海賊たちと、全編に散りばめられたギャグによって、「漫画映画」の看板を守っている。両方とも作監は森康二だ(当時は作監が演出を指名できた)。
 冒頭の港町のシーンの背景美術が実に童話チックですばらしい(カラーリングも)。というか、もろにディズニーで自分的にドストライク。だが、ディズニーの影響を語れるのはここだけで、その後の緊張感あるシーンを経ての少年の冒険という展開は、日本的な漫画映画そのものである。
 また本作の小田部が開発した波のアニメーション手法は、ジブリに至るまで使われ続けている。ちなみに『千と千尋』作監の安藤雅司がこの伝統を変えたがったが受け入れられなかったという。

■『ホルス』演出の継承と発展
 とりあえずは『ホルス』の革新の継続を確かめよう。『長靴をはいた猫』同様、やはり「具体的空間におけるアクション」という『ホルス』で生まれた精神は本作でもしかと確認できる。
 海賊同士の激突の一部始終は、群衆アニメーションとしても実に楽しいのだが、2つの海賊船の2つの接点(デッキとマスト)を活用した複雑なスペクタクルになっている。このシークエンスは宮崎駿の初期における最上の仕事の1つに数えられるだろう。『猫』ラストの追いかけっこ同様、(『ホルス』では不十分だった)三次元空間におけるアクションが指向されている。つまりデッキとマストという高低差のある2箇所で、それぞれアクションが繰り広げられる。そして最後はジムが船内を下っていき、第三層が現れてスペクタクルが締めくくられる。

■宮崎駿の初期作品のプロトタイプ?
 さて、ジムの出発シーンで登場する、樽を改造した超小型船なんていかにも宮崎的な発明品に見えるが、果たしてどうだろうか。本作の宮崎駿は原画のほか「アイデア構成」という聞き慣れないポジションだが、プロトタイプと言ってもよいのではないかというほど宮崎駿作品を思わせる作品だ。宮崎駿作品というか『未来少年コナン』と『天空の城ラピュタ』だけだが、プロットの骨格がかなり似ている。
 つまり、少年には目的地がある。その目的地の秘密の鍵を握るヒロイン(キャシー)がいる(原作には登場しない)。鍵を握るがゆえに悪者に捕まる。少年はヒロインを助け出す。2人は追われる。シンボリックな決戦の舞台で、2人は力を合わせ悪者と戦う。最終的にヒロインはその特異な力を発揮する。悪は滅び、2人は仲間と合流し、ともに帰路につく。
 ヒロインが守られる一方でなくヒーローと並ぶ活躍を見せるのがポイントだ。ツンデレな点は『コナン』や『ラピュタ』と異なるが、二丁拳銃を振り回す女傑っぷりはいかにも宮崎の趣味という感じがする。

■ラピュタとの類似をどう受け取るか
 宮崎駿が「アイデア構成」として、キャシーの登場や宝島の構造など、物語の内容の奥深くまで踏み込んでいたことは確かである。それでも、彼が主導的立場にあったわけでない本作にかくも似ている『ラピュタ』ってどうなのよ……という気がしないでもない(ちなみに『ラピュタ』の企画原案ではタイトル案の1つに『空飛ぶ宝島」とあるので、類似性に自覚があったことは間違いない)。
 が、自分はあくまで宮崎を擁護したい。まず、そもそもオリジナリティや帰属に対する哲学の違いがあると思われる。次に、「反復の身振り」こそ作家性の印だと自分は考えている。そして、当然だが肉付けの部分では全然異なっているし、何より大事なこととして、宮崎の監督作のほうがはるかに面白い。
 動機について推量するならば、『カリオストロ』や『ラピュタ』で彼はリベンジがしたかったのだろう。この時代の技量的・技術的・時間的・予算的限界を超えて、また自分が何もかもコントロールできる立場で、『長靴をはいた猫』や『どうぶつ宝島』をやり直さずにはいられなかったのだろう、と思う。
 
■漫画映画の思ったより短い射程?
 しかし、「漫画映画」という看板をジブリ初期まで掲げていたにもかかわらず、この領域に関する宮崎の引き出しには、『ラピュタ』制作の時点で殆ど何も残っていなかったことが疑われる。『未来少年コナン』でアイデアをほぼ使い果たしたのかもしれない。だからこそ、彼は『トトロ』で新しい道を開いていかざるを得なかった。
 このような路線変更の解釈は、宮崎自身の説明に反しているように思える。彼は、男女の関係性や環境問題などを深刻に受け止め、これを「漫画映画」路線放棄の理由にしている。これはこれでかなり真実だと思うが、どのみち彼は行き詰まっていたのかもしれない。いずれにせよ、漫画映画の放棄によって宮崎駿はさらに遠くへ飛翔することに成功したのである。