さまざまな記号がばら撒かれており、読み解きを誘う作りになっている。とりわけ性や生殖に関する暗示に満ち溢れている。
それはともかく、本作は何よりもまず「宇宙SFとホラーの掛け合わせ」を試みた映画である。ナンバリングの中で唯一ホラー映画の伝統を受け継いだ作品といえる。その上で、シガニー・ウィーバー演じる主人公リプリーを、キャーキャー怯えて男性観客を興奮させる犠牲者ではなく、理性的に立ち向かう女戦士として描いたというフェミ的な変更点を加えている。2作目を撮ることになるキャメロンが、ちょうどこの頃『ターミネーター』でやっているように。「戦う女」表象は80年代からメジャーになっていく。
本作のエイリアンはあまり動かない。エイリアンそのものはラスト付近まではっきりと全身を現さないし、映画が殺戮の瞬間を運動として映すこともない。スコット作品らしいゆったりとしたカメラワークに加えてこのアクションの欠如が、多くの人が2作目に軍配を上げさせる理由だろう。
しかし、キャメロンが完成度高いアクションエンタメに仕立て上げた『エイリアン2』は、本作がもつ「恐怖」を完全にではないものの大部分損なっている。ほとんど奇形的な発展を遂げた3作目、4作目も同様である。
1作目でしか味わえない「ホラー映画」の風格は、部分的には被写体としてのエイリアンに対する態度に由来している。つまり、それを捉えがたい捕食者として描くことに。それは我々の理解を拒絶する存在なのだ。
そして何より映画が重んじるのは「闇」である。エイリアンが潜んでいるかもしれない物陰。映画はときにハリウッド的テンポを抑え、この闇を観客に感じてもらおうとする。
究極的には、闇は宇宙そのものであるとともに、母胎でもある。よく指摘されるように、犠牲者たちが惑星で発見する宇宙人の船は女体のように見え、宇宙服を着た人間たちはさながら精子である。この「冒険」の背後には、企業と科学者のあくなき欲望がある。以後のシリーズを通じてエイリアンは、こうした資本・科学連合の手におえない存在として描かれて、文明批判のメッセージの担い手となるだろう。(なおあのロボット科学者を通じて科学と男性性が周到に結び付けられている点にも留意すべきだろう)。
母胎のメタファーはもちろん主人公たちの船にも当てはまる。これを統御するコンピューターは「マザー」と呼ばれるし、冒頭の冷凍カプセルは子宮のようだ。母胎として宇宙船がもたらす安心感は、エイリアンの侵入によって一気に反転する。それは捕食者の潜む闇を湛えた密室と変貌する。だが、この両極端は、母胎が本質的にもつ特徴でしかない。そこはあらゆる人間が無に近い存在であった場所、最も無力だった場所、すなわち最も死に近い場所だからだ。
母胎は個人の誕生をめぐる謎の場である。だとすれば、宇宙は人類にとってのそれだろう。突き詰めれば、本作の恐怖の源泉たる闇とは、この答えのない2つの謎に行き着くのである。
だから本作のエイリアンだけは殺せない。それは恐怖の具象化であるから。それは宇宙の闇に帰すしかない。
とまぁ話を広げすぎたように思われるかもしれないが、「宇宙SF×ホラー」としての『エイリアン』が単なるジャンルのミックスにとどまらず、両者を有機的に結び付けている結節点はこの「闇」というモチーフである、ということが言いたかったわけです。