ジャン=ピエール・ジュネによる4作目は、Resurrectionという副題とは裏腹に、3作目で致命傷を負ったシリーズにとどめを刺した。もっとも個人的には総合的に楽しめた作品である。ならず者揃いの仲間たちはこれまでで一番個性豊かだし、エイリアンたちから逃げるシークエンスはサスペンスとして普通によく撮れているし、泳ぐエイリアンのCGは出来がいい。明らかに「馬鹿馬鹿しい」場面は狙いどおりに楽しい。だが、面白かったのはとりわけ主題である。人間とエイリアンは完全に断絶した存在だったが、本作ではとうとう「リプリーとエイリアンの一体化」がテーマとなっている。
ちなみにクローネンバーグが監督候補のひとりだったことからも、企画段階で本作に近い方向性が目指されていたのではないかと思う。
この4作目は奇妙なやり方でホラーに回帰しており、そこでホラーは純粋さを失っている。
これはお国柄だろうか、ちょうど先日のオリンピック開会式でマリー・アントワネットの生首が歌うという悪趣味なパートがあったように、本作のホラーは大部分が「笑い半分」のものとなっている(科学者が虐めていたエイリアンに復讐されるシーンなど)。学者が自分から飛び出たチェストバスターで軍人を殺す場面など、グロテスクであるのに明らかにギャグを狙っている。
「一体化」テーマを象徴するのが、液体のモチーフである。先の水中シーンもそうだが、本作ではエイリアンの粘液が血液(何でも溶かしてしまう)がやたらと強調されている。
このテーマが頂点に達するのは、リプリーがクイーンに取り込まれるかのようにして恍惚とした表情を浮かべている場面である。ここも何とも言いがたい感覚を我々に引き起こす。他のシーンで「恐怖と笑い」が融合するように、このシーンでは「不快と快」が融合してしまっている。
この「一体化」は「生殖」と似て非なるものである。明らかに、エイリアンの体表やその粘液といったモチーフは性的なニュアンスがある。しかし、リプリーがあたかもクイーンに取り込まれるかのような件のシーンは、その表情から性行為を連想させるにもかかわらず、1作目のエイリアンの襲撃(エイリアン=男性器が宇宙船=女性器をレイプする)とは全く異なる。
もっともこうしたテーマを映画は展開できていない。本来であれば、人間とエイリアンの狭間にあるリプリーの葛藤がもっと描かれるだろう。とはいえ、そういう心理描写が深掘りされたとして、映画が面白くなったとは考えにくいのだが。しかし、いつものようにエイリアンを片付ける内容になったため、中途半端になってしまった点は否めない。
そしてラスト。劇中の会話から、作中世界の地球はとても住みたくない場所と化しているらしい。そんな地球を眺めるリプリーは、アンドロイドの仲間に“I’m a stranger here now”と言う。この劇中最後の台詞は、彼女が「他者」として人類に会いに行くことを示している。