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バッファロー’66のkuuのレビュー・感想・評価

バッファロー’66(1998年製作の映画)
3.9
『バッファロー'66』映倫区分PG12
原題Buffalo'66
製作年1998年。日本初公開1999年。
上映時間113分。

俳優・ミュージシャン・画家など多彩な活動で知られるビンセント・ギャロが初監督・脚本・音楽・主演を務めたオフビートな米国ラブストーリー。

1991年・第25回スーパーボウルの勝敗をプロットに盛り込みながら、ダメ野郎やけどなぜか憎めない主人公の人生模様と、彼の全てを優しく受け止めようとする少女を描く。

5年の刑期を終えて出所したビリーは、故郷の街バッファローへ帰ることに。事情を知らない両親に電話して『婚約者を連れて行く』と嘘をついてしまった彼は、見ず知らずの少女レイラを拉致して恋人のふりをするよう強要。
レイラはビリーと一緒に過ごすうちに彼の孤独な素顔を知り、次第に好意を抱き始める。しかし、ビリーにはやり残したことがあった。

バッファローで生まれ、16歳のときニューヨークの中心部へ渡ったヴィンセント・ギャロは、驚異的なバイタリティによって、当時のアンダーグラウンド・ カルチャーのただなかに足を踏み入れてゆく。
小生親愛なる画家バスキアとバンドを結成し、自身も画家として個展を開 催。
また、プロのバイク乗りとしてレースに出場。
マー ティン・スコセッシ、
アベル・フェラーラ、
エミール・ クストリッツァら強烈な作家性を持つ監督たちの映画に俳優として出演する。
だけど、彼はそれらのどの映画に対しても不満を持っていたそうです。
己だけの力で満足のゆく作品を撮りたいって考えたギャロは、自ら出演してほしい俳優に電話をかけて交渉し、本作を製作。
意気込みがスゴいし作品通しても気持ちが伝わったかな。
そのナルシスティックな感受性は、
キング・クリムゾン、
イエス、
スタン・ゲッツといった彼が愛聴するロックのナンバーと並べて、自身の音楽を使用するという 姿勢からも見て取れると思います。
ヴィンセント・ギャロが題材としたのは、己の原点であるバッファローという町の記憶。
と云っても、彼にとってその故郷の記憶は輝かしいものじゃないと云ってる。
地元のアメフトチーム、バッファロー・ビルズを応援することとボウリングくらいしか熱中すべきことがない退屈な郊外のホームを疎んじながら、彼はどうしてもその原体験から逃れることができひん。
本作で興味深いのは、一見破天荒でワイルドに見えるビリーが、実は極端な神経質であるという設定だ。
尿意を催してトイレに駆け込んでも人目があるところでは絶対に用を足すことができず、ベッドシーツはつねにしわ一つなく伸ばされていなければならへん。
これはビリーが、郊外の変わり映えのしない生活のなかで、自己の内面に埋 没していったことの証なのかもしれへん。
ヴィンセント・ギャロは自身をコントロールフリークと称し、すべてにおいて完璧でなければならないという強迫観念にも近い感覚の持ち主であることを公言しとるが、それはシナリオ執筆から撮影技法まであらゆる行程を自分の意の向くままにコントロールしなければ気が済まないちゅう彼の映画作家としての資質に最も顕著に表れてる。
その結果、画面構築や色彩設計まで目配りが行き届いた本作品の豊かな外見は、それ自体ファッションアイコンとして絶大な支持を集めた。
本作品にカルト的なファンがついたもう一つの理由は、クリスティーナ・リッチの存在じゃないかな。
『アダム ス・ファミリー』ゴシックロリータ少女役などで子役として人気を得た彼女やけど、本作品では童顔に似つかわしくない豊満な肉体と金髪で、圧倒的な存在感を示している。
このギャロとリッチのカップルは、どこか大人になり切れへん子どもと、それを包み込む母親のようでもあり、不思議な安らぎの感覚を作品に付与しているかな。
同時代のインディーズ映画ムーブメントに否定的な姿勢を見せ、わが道を行くギャロはいわば90年代米国随一の『無頼派映画作家』やし、『バッファ ロー66』はカルトムービーとしていまだ忘れ難い作品の一つとなっている。
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