2024年、最後の映画鑑賞。最後に選んだ作品は『縞模様のパジャマの少年』。予告編を鑑賞しないで、この作品を観ることにした。前情報はポスターの情報のみだ。収容所を通して分断されたフェンス。そのフェンスを挟んで向かい合う少年たちのビジュアル。ポスターを見た感じ、戦争によって出会うはずもなかった二人の少年が友情を築いていくヒューマンドラマかと思った。しかし終盤に連れて、作品に対する予想は大きくハズレていくのだった。まさかあんな結末になるとは、想像もしなかった。この映画におけるジョナサン・グレイザーブルーノ (エイサ・バターフィールド) の死は、無知によって引き起こされたものだ。無知といえば、同じホロコーストを題材にしたジョナサン・グレイザー監督作品『関心領域』を思い出す。『縞模様のパジャマの少年』は『関心領域』とはまた違ったテイストの作品だ。無知がとんでもない結果を導くという設定は似ているが、その無知の範疇、領域、捉え方が全く異なる。残酷だが、戦争は情報を知らない者、つまり情報弱者が真っ先に命を落としていく。いわば狩猟時代に火を知らないまま、火に触って火傷を追う人と同じだ。『関心領域』では本当に何も知らないことの罪深さをテーマにしており、『縞模様のパジャマの少年』では無知による不憫な少年の死をテーマにしていた。同じホロコーストを題材にした作品が、ここまで違うアプローチをするとは、映像は表現次第で伝えたいメッセージ性が変わることを改めて実感した。そして事実を伝えるべく、映画という媒体が正しい役割を果たしていることを嬉しく思う。考えてみれば、映画は記録映画と言う形でプロパガンダの役割を担っていた。戦争によって映画は進化していった。『縞模様のパジャマの少年』の劇中でも、収容所を良い風に宣伝する広告映像が流れていた。映像の持つ悪い影響力を改めて痛感する。
ブルーノはある意味、シュムール (ジャック・スキャンロン) と一緒に最期を迎えることができた。そういう意味では、ブルーノとシュムールはずっと一緒のままだ。だが死を迎えてしまった以上、周りの人たちの傷は大きい。特にブルーノの家族は、自分のことを恨むだろう。戦争はお互いが正義だと思って侵略し合う。ブルーノの父親が自分がしていることを正当化しようとするシーンは哀れだった。本当に戦争が無くなればいいのに。
またブルーノが家のチョコレートを盗むシーンには心に温まった。子どもは何も知らないため、心が汚れていない。ブルーノとシュムールはこのまま幸せに老後まで生きて欲しかった。絶対に殺されてはいけない人たちが、無差別に殺される殺戮。許せない限りだ。今もなお、戦争は続いている。おそらく人類は戦争をやめることはないだろう。だからこそ、少しでもこういう映画作品が広まって欲しい。この作品を「胸糞が悪い作品」と言ってはいけないと思う。こういう事実を映画で見届けることが、私たちの役目なのだろう。戦争や殺戮によって科学技術が発達してしまった現代社会で、人類の呪いに目を向け、映画というメディアを通して事実を学ぶことは重要だと思う。 2024年、最後の映画作品は色々と考えさせてくれた。『縞模様のパジャマの少年』は是非とも、友人達に勧めたい。