1931年のアレクサンダー・コルダ監督作品。コルダは映画史的にはエルンスト・ルビッチ監督『生きるべきか死ぬべきか(1942)』やキャロル・リード監督『第三の男』などのプロデューサーとして有名だろう。ハンガリー出身の彼は若い頃は映画評論家として雑誌に寄稿しており、1914年から映画監督に進出する。1919年のハンガリー革命とその余波により彼は妻で女優のマリア・コルダとともにウィーンに逃れる。オーストリアやドイツでも映画を撮り、主演であった妻マリアがサイレント映画のスターとしてハリウッドのファースト・ナショナル社からオファーを受け、夫と一緒でという条件で契約する。1926年に渡米した2人には試練が待ち受けていた。それは映画がサイレントからトーキーへの移行という映画史の最大の転換点であった。ハリウッドでは1927年の『ジャズ・シンガー』からトーキーが誕生し発展していく中で、それ以前は問題にならなかった役者の発話が大きな問題となり、そこでキャリアを終えるスターも数多くいた。アレクサンダー・コルダの妻マリアもハンガリー出身で英語は得意でなく、訛りもひどかったようで活躍できず契約を切られてしまう。そんなこともあってかコルダは妻と離婚し、ヨーロッパへ戻りキャリアを再スタートさせる。最終的にイギリスに行き着く前にフランスで撮られたのが本作『マリウス』である。
『マリウス』はパリの演劇界を牽引していたマルセル・パニョルが1929年に上演した同名戯曲の映画化で、続く『ファニー(1932)』『セザール(1936)』と合わせてマルセイユ三部作と呼ばれている。1929年パニョルはロンドンで行われたハリー・ボーモント監督『ブロードウェイ・メロディー(1929)』の上映会に参加している。この作品は映画史上最初の全編トーキー作品とされており、これを観たパニョルは大いに感動し、自身の戯曲の映画をトーキーで作る決心をする。演劇人であった自分が映画の新しい技術まで習得し、演出まで行うのは難しいので『マリウス』はサイレントからトーキーの移行を体験したアレクサンダー・コルダに監督をしてもらう事となった。なお役者への演技指導などはパニョルが行なっている。
セザール(ライム)はマルセイユ旧港にあるバー・ド・ラ・マリンを経営しており、息子マリウス(ピエール・フレネー)はそこで働いている。20代のマリウスは働きながらも店から見える海やその先にある異国に憧れを持っていた。マリウスの幼馴染で妹のように可愛がっているファニー(オラン・ドゥマジ)は母の仕事である魚介類の路上販売を手伝っている。マリウスは港にやってきた船乗りたちと話して船旅への憧れがさらに強まっていく。ファニーは幼い頃からマリウスを愛しており、彼の嫉妬心を刺激するために裕福なパニース(フェルナン・シャルパン)という親子ほど歳の離れた男性にプロポーズされたことをマリウスに打ち明ける。そしてマリウスへの愛を告白すると彼の方もファニーを愛していると認めるものの、外国への憧れを捨てきれないでいる。
数日後の早朝ファニーの母はファニーの部屋でマリウスと娘が一緒に眠っているのを発見し、セザールのところに向かい、親同士の話し合いで2人を結婚させることにする。結婚が決まった2人だったが、乗船しようとしていた船の出航日が近づくとマリウスは憂鬱さを隠しきれなくなり、ファニーはそれを観て自らの愛情よりも彼の夢を優先する決断をする。
海を隔てた男女の別れは監督であるアレクサンダー・コルダとマリアのようで興味深い。次作『ファニー』ではマルク・アレグレが、そして最終章『セザール』は満を持してマルセル・パニョルが監督している。3人の監督が作っているが、『ファニー』は『マリウス』のエンディングの直後から始まっていたり、『マリウス』で有名なカードゲームのシーンが20年後の設定の『セザール』でもほぼ同じ構図で繰り返されていて空席の椅子で故人が強調されていたりするので、3作観ることでその連続性も楽しめるだろう。2024年はマルセル・パニョル没後50年、2025年は生誕130年ということで、日本であまり紹介されてこなかったパニョルの発見にもってこいの時期が来ている。