【物足りない】
(以下は、この映画がロードショウで上映された2013年春に某映画サイトに投稿したレビューです。某映画サイトは現在は消滅していますので、ここでしか読めません。)
期待して見たのですが、どこか物足りなさが残る映画でした。
辞書作りという地味目なテーマで、ドラマティックな盛り上がりに欠けていることもあるでしょう。しかし、原因は別のところにあるような気がします。
まず、主人公の馬締。マジメがそのまま姓になっているところは面白いと思いましたが、そのオタクぶりに不自然さを感じました。
例えば彼は言語学の大学院を出たという設定になっている。言語学というのは外国語の構造などを研究する学問で、日本語だけが対象なら言語学ではなく国語学となります。だから配属されるなら外国語の辞書作りが正解じゃないのと思いますが、まあそれはいいとして、問題は言葉遣いですね。
彼は「おいしいです」というように形容詞の終止形に直接「です」をつなげる言い方を多用している。これ、国語学的に見ると問題ありなんですよね。これで正解という意見もあるけど間違いという意見もある。少なくとも言葉に敏感な人間は「おいしいです」を多用することはない。(じゃあどう言えばいいのかというと、単に「おいしい」でよろしい。)恋文を書くのに毛筆を使うような人間が、「おいしいです」を濫用している。なんか変だな、と思いました。
それから、『大渡海』の企画が一時期中止になるか、という場面がありますよね。あそこで幹部は採算性を考えているわけでしょう。とすれば、投資費用やそれを回収できる見込み、或いは部数がどの程度いくか、定価をいくらにするかなど、お金の問題が出てくるはずだと思う。ところがそれが全然出てこない。不自然ですね。
次に、『大渡海』は現代的な日本語の語彙や用法に重きをおいた新機軸の辞書だ、という設定になっていますね。その場合、どういう語彙を採用しどういう語彙を捨てるか、という問題があるはずでしょう。『大渡海』は、実在する辞書で言えば『広辞苑』クラスの規模だということになっている。とすれば新語を何でもかんでも採用することはできない。また、現代的な語彙はすたれるのも早いわけです。
例えばこの映画は時代的に言うと1995年から始まっていますが、その場面で「ネットサーフィン」という言葉が使われている。1995年はwindows95が発売され、一般人にも広くコンピュータが普及するようになった年です。コンピュータの画面でサイトを閲覧して、リンクされた別のサイトを次々と見ていくという行為が目新しく、だから「ネットサーフィン」が流行語になったわけですね。でも、今ではサイト閲覧は当たり前で新鮮味もなく、「ネットサーフィン」という言葉もほとんど使われなくなりました。1995年なら「ネットサーフィン」という語彙を新機軸の辞書に収録する意味はあった。しかし辞書の完成は2010年頃です。すでに使われなくなったこの言葉を収録すべきかどうか、当然編集部では問題にされるはずだと思います。でも、別にこの言葉でなくともいいのですが、「この単語、入れる、入れない?」で編集部がもめる、といったシーンが全然ない。辞書作りをテーマにするなら、こういうシーンは欠かせないはずなのに。
あと、人間そのものの描写も不足しています。
いちばん面白かったのは、馬締じゃなくて、オダギリジョー演じる西岡ですね。軽薄で、辞書作りなんて地道な仕事に全然向いていなさそうなのに、実は意外に熱意をもっており、馬締とは別な方向から仕事に協力している。オダギリジョーの当たり役でしょう。
小林薫も、辞書作りの編集者ってこういうタイプの人間がなりそうだな、と思わせて好演。馬締みたいな極端さは、かえってリアリティを損ないます。松田龍平が悪いのではなく、脚本家や監督が悪いのだと思いますが、しかし小林薫の役者としての年輪も無視できないでしょう。
馬締の物足りなさは上にも書きましたが、それ以外に、宮崎あおいとの関係がリアリティを欠いていて、全然魅力がありませんでした。宮崎の役どころも、おいしそうな料理を作るという、今どきの流行に迎合した感じの役で、彼ら二人の夫婦としてのあり方の内実が見えてこない。単に辞書作りの変人と料理のうまい女が一緒にいる、というだけ。何年も夫婦やっても子供もいないし、何やってんだろう、という感じ。
余計なことを書き添えると、少し前に同じ宮崎あおいの出ていた『きいろいゾウ』も子供なしの夫婦で料理がうまそうで・・・という映画だった。こういう映画、別に宮崎あおい出演作でなくとも『しあわせのパン』なんかも同じなんですが、どうも宙に浮いている印象があり私は好みません。
総じて女優の扱いがダメな映画ですね。よかったのは、下宿のおかみさん(渡辺美佐子)だけかな。編集部に非常勤(?)で勤めている伊佐山ひろ子にはもう少し脇役なりの見せ場が欲しいし、オダギリジョーの恋人役の池脇千鶴も存在理由がイマイチよく見えてこない。
何より、途中から編集部に配属される若い女性編集者(黒木華)の性格付けが弱い。新感覚の若い女性が、辞書作りに違和感を覚えながらも自分なりの貢献をしていくようになるという変化が十分描かれていないのです。
以上、長々と書きましたが、要は辞書作りそのものの描き方、そして人間の描き方の双方が不十分ということですね。残念。