山ちゃんこと祐太と祐介の兄弟はクズの父親に捨てられ、別々に育つ。
祐太は善良な家族に育てられ気の置けない人たちが暮らす地域に溶け込む。しかし、そのためにはいつも笑顔を作って、人々に無償の奉仕をし続けている。彼は、自分が生きていくためには今の家族や地域の人たちが必要で、それを維持するためにはその行為が必要だと思っていて、また、その行為は自分が好きでやっていると思い込もうとしている。
祐介は一緒に暮らしていた母が早くに死に、親戚をたらい回しにされていた。その中で、彼が身につけたのは人を笑わせて気に入ってもらう業。
彼らのそのような処世術は、子供なりに考えた最善の方法で、生きていくために仕方なくやったこと。それは痛々しい。そして、そのストレスは、祐太には秘密でゲイバーで働くことに走らせ、祐介には世間に対する不信感を大きくさせる。
そんな中、祐介の相方の大介が、この映画の深い命題を投げ掛けている。笑いの5要素、その内の「不幸」だ。 ひとの不幸は笑えるのか、もしくは、ひとは不幸を笑いに変えられるのか。
裕太と祐介は不幸な身の上だ。
祐太は笑顔を作って それを絶やさないが、他人を笑わそうとしているわけではない。しかし、その懸命な行動が度々おかしさを生み出す。 そして、もう一つ、ゲイバーでの秘密の祐太は、どぎつい ジョークで他人を笑わせている。
祐介は他人を笑わせることで世の中を渡ろうとしている。つまり、それは生きるための手段だ。しかし、皮肉なことに彼のすること言うことはそれほど面白くない。
この違いはそれぞれの身の上に対する向き合い方の差が生み出しているように思える。裕太は自分の境遇に正体し逃げずに全てに対応しようとしている。祐介はそれに対して斜に構え、世間をうっすら軽蔑し増んでいる。裕太の不幸を突き抜けその向う側に行ってしまっているところが面白いのだろう。
笑いの5要素のうちの「不幸」は、「笑える不幸もある」というのが正しいところのようだ。