アマプラに来ていたから久しぶりに見返したけど、代表作との位置づけに違わず楽しく観られる。ウェス・アンダーソンの明らかにフィクショナルな作り方が、物語に対するエクスキューズとして働きつつ、うまいこと「ノスタルジックな大人のおとぎ話」へと観客を没入させることに成功している。さらにチャップリンと脱獄映画へのオマージュは、本作のノスタルジーに映画史的追憶を補足する。
■ひげ
さて、口ひげだ。歌舞伎役者の化粧は、物語の虚構性をあからさまに示すと同時に、それが劇世界に観客を没入させるスイッチでもあった。これと同じ両義性が本作の口ひげにも当てはまる。口ひげによって本作は、言葉の本来の意味におけるコスチュームプレイであると同時に、俗語におけるそれ=コスプレとして、「コスチュームプレイのパロディ」となる。
それは単に嘘という意味ではない。アンダーソンの映画はつねに「否認」という心的機制とセットである。つまり、「意識のレベルでは嘘と(大っぴらに)認めつつ、無意識のレベルでは信じる」という構えである。否認は映画(鑑賞)に本質的ではあるものの、アンダーソンの際立った遊戯性・虚構性は、ハマる人にはそれだけ否認の効果をもたらす。つまり、おとぎ話を信じる、没頭するという効果を。
■ひげの欠如
ゼロ・ムスタファは偽物の口ひげを描くわけだが、これは第一にグスタヴとの同一化を示す記号だろう。この映画のブロマンスとしての性格は明らかだが、じつはこのカップリングは鏡合わせになっている。つまり、マダムの親戚と雇われの殺し屋である。殺し屋にも口ひげがないことに注目されたい。口ひげの欠如は、まずゼロと殺し屋の階級を示している。そして、そのことは、この2人がノスタルジックな物語世界の住人でないことを暗示している。
だとすれば、ここには二重の虚構がある。まず、「ノスタルジックな大人のおとぎ話」として我々に供される物語そのものの虚構的性格。そして、そのあからさまな虚構性に隠された、この2人の「ありえなさ」である。本作のフィクショナルな作り方、つまりアンダーソンの独特の撮影法や、グスタヴのおどけた振る舞い方、とぼけたギャグ……は、明示された本作の虚構性だが、それはゼロと殺し屋の「ありえなさ」を誤魔化すためにあるのだ。